2013年12月07日(土) 伊勢国司 北畠具教の史跡めぐり(多気郡大台町) (車、徒歩)
先日、熊野古道体験ツアー 三瀬の渡しから瀧原宮に参加した時に頂いた『伊勢国司 北畠具教 三重・大台町北畠遺跡ウォーク』のフライヤー。
当日に参加したかったが12月8日には予定が入っていたため、前日である7日に個人的なウォークを実施することにした。手元にはフライヤー同時に頂いた次の史跡絵図(北畠具教ゆかりの地周遊マップ)があったので、このルートをベースとして寄り道プラスαのめぐりとなった。見学する場所については次の資料に説明されている。
今回はこの地図の順序でめぐった。
なお、この地図に「北畠館跡」と記されている場所が現地にある碑や説明板では「三瀬館跡」とされていたため、この記録では「三瀬館跡」と記述した。
まずスタート地点は道の駅 奥伊勢おおだい。ただし、一般観光客の邪魔にならないように大台町役場に近い場所に駐車しておいた。
【1】 道の駅 奥伊勢おおだい
道の駅 奥伊勢おおだいで
トイレを借りてから休憩スペースへ出るとダルマストーブが置かれていた。
近づくと暖かい。すでに火が点されていた。
道の駅から国道42号へ出ると松阪方向へ歩き始めた。
大谷川に架かる三瀬谷橋を渡ると
左手にはJR紀勢本線の鉄橋が見える。
さらに進み大台厚生病院を過ぎると左手に紅葉が見えた。まだまだ山には紅葉が残っていた。
国道42号 上三瀬交差点右折するとしばらくは二週間前に歩いたコースを歩くことになった。
【参考】
二週間前には工事用の塀が設置されていた三重県立宮川高等学校の跡地では塀が取り除かれて完璧な更地が姿を現していた。今年の5月には校舎は建っていたのに・・・。
【参考】
旧校庭には入れないので道路から左右を見渡したところ、右手方向に次の記念碑が建てられていた。
宮川高等学校の跡地から大谷不動明王を目指して歩き始めると
前方右手に見える土蔵を意識しながら岩船橋を通過すると
その袂には「岩舩橋」と刻された親柱が残されていた。
さらに次の道標を過ぎると
下り坂の先には鳥居が見える。大谷不動明王だ。
右手上方のススキに季節を感じながら大谷不動明王の鳥居前に到着。
【2】 大谷不動明王
今までこの前を二度通過したが、先を急ぐ状況だったのでお参りすることができなかった。今回初めてのお参りだ。
まずは、説明板を改めて確認。
坂道を下ると
その先の祠にて
お参り。
丁度祠の前付近から清滝が望める。しばらく滝の音を聞きながら見入ってしまった。
場所を変えてもパチリ。
【動画】 音はかなり小さい。
(38秒 23.MByte)
大谷不動明王を後にすると清滝への流れを越える大谷橋を渡った。
その際、橋の上から滝壺を覗きこむと
こんな感じ。パチリ。
大谷橋を越えると次は三瀬砦跡へ。
案内板で右折すると
【3】 三瀬砦跡
土塁が残された状態の三瀬砦跡に到着。二週間ぶりだ。
早速、砦跡の中へ入ると
まずは井戸跡をパチリ。(前回ゆっくりと見学できなかたので・・)
この井戸の構造、どこかで見たような・・・。そうそう、伊勢市大湊の忘れ井だ。
【参考】
続いて八幡社にお参り。今日はひとりなので出発時刻に縛られることなく自由だ。
十分お参りした。
そして、こちらが砦跡の南側。前方には通称コウモリ山が立ち、その前を宮川が右から左へと流れる。
土塁へ戻ると土塁の上からもパ〜チリ。
三瀬砦跡を後にした。
5月に歩いた熊野古道伊勢路へ戻ると三瀬砦跡を遠望。パチリ。
三瀬砦跡からすぐ近くにあるのが慶運寺。
周遊マップには樹齢300年のサザンカ・・・と説明されていたので、
参道を進むとまずはサザンカをパチリ。
境内の雰囲気はこんな感じ。お参り。
サザンカの奥もパチリ。
慶運寺を後にすると次のY字路では道標に従って長ケ方向へ進んだ。
【4】 旧熊野街道道標
次のポイントは旧熊野街道道標。
ここには三瀬の渡しの説明板、
さらには、米配場へ続く道との角に建つ道標の説明板がある。
そしてこちらは現在の道標。
こちらが説明されている道標。
この道標を右手に見ながら進むと米配場への道である。ここで寄り道だ。
米配場への道を進むと
左手に「湧き水」の立札があり、
その下には文字通り、湧き水が溜まっていた。
さらに進むと先に立札が見えた。工事用フェンスの脇を進むと
こめはば(米配場)の説明板があった。「こめはば」と読むんだ。
ここから奈良県桜井市まで郵便物を運んだとは・・・。
米配場を後にすると先ほど道標まで戻り、三瀬の渡し方向へ進んだ。その前に新設されている「大台町 三瀬の渡し前 バスのりば」をパチリ。
後でその下をくぐる予定である国道42号を左手に見ながら進むと
橋を渡って、高架をくぐった。
その先左手には
明神さんが場所を移して祀られている。
さらに先へ進むと右手に建築ブロックが積まれた門がある。その門を入りガードレールに沿って土道を進むと
三瀬の渡しの説明板が建っている。
この立札は『何年か前に大水のために宮川の下流まで流されたが、最近になって発見された。』奇跡の立札だ。
【参考】
こちらも2週間ぶり。三瀬の渡しへ下った。
【5】 三瀬の渡し
今日は誰もいない。渡し船はないが、独占状態だ。
と思っていたら対岸に船が引き上げられていた。木造船のようだがどうしたのだろう?
三瀬の渡しを後にして県道まで戻るとフェンスに沿って先へ進んだ。
三瀬の渡しを眼下に眺めながらさらに進むと
「長ケ」の地名板が見えた。ここからが「長ケ」、NAGAと記されていた。「あっ、そうか。『なが』と読むんだ。今初めて知った。驚き!」
ここからのパノラマは壮観だ。(クリックで拡大〜)なかなかいいビューだ。
次の目的地である下三瀬八柱神社へ向かうために三瀬の渡しを後にした。
まだ、11時前だったが小腹が空いてきたので昼食用のパンをかじりながら・・・。
マップの順路に従って三瀬の渡しから戻って右折するポイントへ到着。
先ほど見かけた「大台町 三瀬の渡し前 バスのりば」脇の道の方が街道っぽいのでそこまで戻り、この道を歩いた。
先ほどの道と合流し左へ進むと次の道標。「→ 三瀬の渡し」と書かれていて戻ってしまうことになるが、この先に立札が見えたためとにかく先へ進んだ。
立札へ近づくと
そこには「熊野古道の道標」と書かれていた。「実際の道標は、どこだ?」立札の左奥に・・石?
その石がこちらだ。文字が刻されているようだがよくわからない。
その石から来た道を振り返ってパチリ。
ここに道標があるので先へ進んでみたが
国道42号下の側道を先へ進んだがトンネルは見当たらなかった。どこかで国道をくぐるのだがこちらではないようだ。
マップを再度確認したら先ほど通り過ぎた道標を左へ向かうことになっていた。道標へ戻ると左手の細い道へ入った。(実はこの先のルートがわからずに迷ったので、近所の方に教えて頂いた。)
道標から細い道へ入ると数m先、石積みの角を右折する。
するとその先の右手にトンネルが見える。(すぐ近くにあったんだ。)
トンネルへ近づくとその前には道標があった。
こらが道標。「↑ 八柱神社・・・」へ向かうためにトンネルへ入った。
トンネルを抜けると道は直角に右へ折れ
この下をくぐると
建物の脇の細い径を・・・。(案内表示がなければなかなか進入できない程の細い径だ。)
この径を抜けると正面に八柱神社。ここは見覚えがある。5月に歩いた熊野古道伊勢路だ。右手方向に観音堂跡があるのを思い出し、確認に向かった。
【参考】
こちらが観音堂跡。熊野古道伊勢路を歩いた時は通り過ぎただけだったので、
坂道をのぼり現状を確認した。
【6】 下三瀬八柱神社
観音堂跡から戻ると八柱神社にお参りした。
社標の隣にある説明板には次のように記されている。
八柱神社(やはしらじんじゃ)
二十年に一度遷宮。境内の木を使って社を建て替えられる。境内の一角、本殿の南西の小さい社には下三瀬の開拓者とされる人達が祀られている。正月元旦には初詣の氏子が大火を囲んで御神酒をいただき日の出を拝む。また正月十五日の例祭には餅撒き等神事を行う。
お参り。
こちらが下三瀬の開拓者とされる人達が祀られているの小社。
八柱神社の境内でパチリ。
頭上を見上げてパチリ。
熊野古道伊勢路を歩いた時はこの先を左へ進む国道42号を横断したが、今日のルートをこちらを右だ。
歩き始めるとすぐ右手にこの木を発見。八柱神社の境内の片隅のようだ。
山神が祀られているのだろうか?
続いてはJR紀勢本線に架かる下三瀬跨線橋を目指した。 右折した後
突き当りを左へ進み、道標を過ぎると
右手に立札がある。
こちらだ。
ばんば(馬場)
八代伊勢国司北畠具教の家臣が馬の稽古場として利用した。
ばんば(昔の馬場がなまったものでその地名になっている)
そして、その先には
この道標。
右折すれば、その先が下三瀬跨線橋だ。
【7】 下三瀬跨線橋
緩やかな坂道を進みパ〜チリ。
こちらは右(多気方向)、
そしてこちらが左(新宮方向)
跨線橋を渡って振り返ると三瀬砦跡で見たコウモリ山が聳えていた。
背にした道標に従って茶臼山の方へ進んだ。
歩いている道路はしばらく線路と並行しているが
このように離ればなれとなる。
この場所にも道標。
右へ曲がろうとしたところ踏切の警告音が鳴り出した。もう少し早かったら跨線橋の上から撮れたのに・・・と思いつつもシャッターを押していた。パチリ。下三瀬跨線橋を通過してから近づいてきたJR特急南紀号だった。
目の前を通過してからもパチリ、パチリ。
なんと、民家の軒先を走って行った。
南紀号を見送ると道なりに歩いた。
坂道を下ってから
上ると
耕作地が広がっていた。振り返ってパ〜チリ。
さらに、左方向をパ〜チリ。
次の道標で右折すると
すぐ近くに茶臼山への登り口があった。通りすぎてからパチリ。
階段はこちらだ。
マップのルートはこちらだが、近くに東池があるようなので寄り道することにした。
階段を右に見ながらさらに進むと
右側には巨大な水路が見えた。左から巻いてその水路を渡ると
その先には東池が広がっていた。
パ〜チリ。
奥の方は公園になっているようだが、写真を撮ると先ほどの階段まで引き返した。階段の手前でこんな光景をパチリ。
茶臼山への階段を上るとその先で車道と合流する。この車道は東池の近くにつながっている道路だった。車道進むと
すぐ右手に道標と茶臼山の説明板がある。
茶臼山
この小高い山は茶臼山と呼ばれ伊勢国司北畠具教が、ここ三瀬の地に館を築いて隠居したころ、館を護るための見張台であったと伝えられている。
頂上からの眺めは地域一帯と、宮川をへだてて度会の山々を一望におさめてまことにすばらしい。往時、眼下に「下三瀬砦」がありその左上方には見張所の「行者山」。また右方には「八幡山」・「愛宕山」の見張所もあった。これらの見張所は、茶臼山見張台を中心として互に連絡を保ち、館を守護する任務を果たしていたことだろう。なお頂上にある小祠(ほこら)は、当区民がまつる火防の神「秋葉神社」である。
上三瀬区史跡保存会
説明板を過ぎるとその先には鳥居が見える。この山道は、秋葉神社への参道でもあるのだ。
こちらが鳥居。
鳥居の右手には簡易水道の施設であろうかこんなメーターがあったのでパチリ。
鳥居をくぐると
整備された階段を進んだ。
左右に別れる分岐で左のルートをとった。
この先は広場となっていて休憩所が設置されていた。
ふと、反対側を見ると囲いの先にある木の幹にピンクのマーキングを発見。踏まれた跡があり、山道のようだった。囲いを越えなくてはいけないもののしっかりと踏まれた様子だったので眺望を求めて歩いてみることにした。(実はこの判断が失敗で、眺望を得られることもなく山の中で一時間弱を過ごすことになったのだ・・・。)
広場の囲いを越えるとピンク色のマーキングを頼りに尾根を登り始めた。最初はルートも明確で順調に歩けたが、
途中から倒木や切り倒された木々が進路を阻み、かき分け、乗り越えながら・・・となった。
そろそろ頂上に近づいてきたかに思える雰囲気となったが、この先は非常に荒れていて先へ進むのを躊躇ってしまった。十分な準備もなかったので「迷ったら引き返す。」自分のルールに従って下ることにした。
「ピンクのマーキングに従って下ればいいや」と思っていたので、その通りに下ると「あれれ」見覚えのない場所に降りてしまった。
何とここは次の目的地である三瀬館跡だった。(反省)
長〜いながい寄り道、50分ほど山の中を歩いていた。そう言えば、まだ茶臼山の頂上には立っていなかったので先ほどの説明板まで戻り、
鳥居をくぐって山道(参道)の階段を上った。二度目の階段は足が重かった。先程は分岐で左、こちらへ進んだので、
今回は右のこちらへ進んだ。
階段を進むと視界が開け、さらに上への階段が続いていた。その階段を上ると
その先が茶臼山の頂上であった。
【8】 茶臼山
歩いても一分は掛らない隣の広場からここまで来るのに約一時間をかけた私は・・・。でもその一時間のおかげでこの頂上に立つ有り難みが何十倍にもなっているのも事実だ。(とにかく、感謝)
まずは、秋葉神社にお参り。
しばらくはこの場所での眺望を楽しんだ。
茶臼山の頂上から隣の広場へ移動すると
休憩所で昼食をとった。先程はあの山の途中まで登ったことになる。いったいどこまで登ったのだろう!
昼食後にもう一度だけ茶臼山からの眺望を楽しんでからこちらの階段を下った。
下りでは参道の入り口に建つ鳥居にしめ縄が気になった。なぜなら、
鳥居の柱の下に取り替えられたと思われる古いしめ縄が置き去りにされていたから・・・。
茶臼山を後にすると先ほど歩いた道を戻り、三瀬館跡へ向かった。すぐ近くだ。
【9】 三瀬館跡周辺
三瀬館跡の前にてパ〜チリ。
坂道を進み、
右手には
この案内板があり、
先ほどの階段を進むと北畠具教郷三瀬館趾の碑、三瀬館跡の説明板がある。
三瀬館跡
昭和十六年県史跡指定ここは伊勢国司八代北畠具教卿の隠棲の地である。永禄十二年(1569)具教は大河内城において北畠氏の総力を挙げて織田信長の大軍を迎え撃ったが、やがて信長の次男茶箋丸(後の織田信雄)を養子とする条件で和議を結んだ。その後具教は宮川筋において最も要衝であるここ三瀬の地に館を築いて隠居し勢威の回復を図ったが天正四年(1576)信長の指令により信雄のさしむけた刺客によって謀殺された。
館跡は鎌止山の麓斜面を改修してほぼ三段にしつらえられているが、そのどこに居住されていたかは 明らかでない。
(この説明書きによると私が歩いていた山は、「鎌止山」か?)
そんなことを考えながらパ〜チリ。具教はどこに居を構えていたのだろう。
下の段へ下ると池の奥には
胴塚の碑と説明板がある。
胴塚の碑
これは北畠具教の胴塚の碑と伝えられる。この碑はもと当区小字西村(現宮川高等学校敷地)に鎮座した北畠神社の神域内に祀られていたもおんであり、北畠氏旧臣の子孫の発意によって江戸時代初期に造立されたといわれている。(但し、先に見たように、宮川高等学校は廃校となり、敷地は更地になっている。)
また、この碑の右側には次の立札があった。
北畠具教の碑
伊勢の国第八代国司北畠具教の首塚はこの方角、松阪市飯高町野々口にあります。
三瀬館跡を出るとその前に広がる風景をパ〜チリ。
その中央に胴塚の案内板があるので、それに従うと
小川を渡り、
階段を上った先に
北畠具教胴塚がある。
【10】 北畠具教胴塚
北畠具教胴塚
天正四年(1576)11月25日『三瀬の変』、織田信長の差し向けた刺客によって謀殺された、北畠具教の胴体が埋葬された塚。
具教の首は家臣が。津市美杉町の多気の菩薩寺に葬ろうと、宮川筋をさかのぼり馬を走らせたが、敵方の追撃も厳しく、大台町栗谷から尾放峠を越え、松阪市飯高町の野々口に埋葬された。
塚の前には新しい卒塔婆が立て掛けられていた。そこには「四百三拾八回忌」と記されていた。没年が1576年で、それに437を足すと確かに2013年となる。
胴塚の片隅にはこんな置物も。
胴塚でのお参りを終えると最後の目的地である北畠神社へ向かった。
三瀬館跡付近の橋を渡ると
しばらくは茶畑の中を・・・。
道標に従い、さらに茶畑を見ながら進むと
さらに茶畑を見ながら進むと
次の道標に到着。「三瀬谷ダム」の文字が見えるがこちらが帰路のルートだ。北畠神社はここを直進。
【11】 北畠神社
道なりに進むと程なく北畠神社に到着する。
小さな橋を渡ると右手に拝殿が見える。
説明板を見ると
こちらだ。
北畠神社
当神社は、北畠具教卿を主神とし、伊勢国司初代顕能卿ならびに歴代国司、天正四年北畠氏滅亡の際、その難に殉じた家臣の霊、なお当上三瀬区古来よりの祭神である八幡神、他六座の神々を併せ祀っている。この神社はもと熊野街道(現旧道)に沿う小字、西村(現、宮川高校敷地)の地に、広大な神域と壮麗な神殿をもって鎮座していたが、昭和二十二年、故あって、ここ八幡山の麓に遷し祀られた。
祭礼は毎年三月二十五日、盛大に執り行われ、村の鎮守として区民の尊崇もまた厚い。
上三瀬区史跡保存会(但し、先に見たように、宮川高等学校は廃校となり、敷地は更地になっている。)
お参り。
拝殿の右手へ進むとかなり古そうな手水石が置かれていた。
さらにその奥には常夜燈が建ち、
神棚(この前には小さな狐の置物)と石造りの小さな祠が置かれていた。また、その隣には山神と刻された石も・・・。
お参りしてから左後方に振り向いて拝殿をパチリ。
左隣に位置する本殿はこんな感じで神々しかった。
北畠神社を後にすると、秋に別れを告げて
先ほどの道標にて「三瀬谷ダム」方向へ向かった。
次の道標で右折するとしばらくは道なり。
マップに「うす暗い坂道」と記された坂道(それほどうす暗くない)を下ると枝垂桜のある丁字路で右折。
道なりに進むと左手に道標。
この後もマップに従って進むと
大台中学校のグランド脇に出た。
左手にはJR紀勢本線 住内寺踏切が見えるが、これを渡らずに
直進した。
[大][台][中][学][校]の看板を右手に見ながら
さらに進むとマップに記されたアジサイの坂を下り、JR紀勢本線上三瀬踏切付近に出る。
ここは熊野古道伊勢路を歩いた時も先日のでも熊野古道体験ツアー 三瀬の渡しから瀧原宮でも渡った踏切だ。
上三瀬踏切付近の道標を右に見ながら
大谷川に架かる小佐原橋を渡るとゴールはもうすぐだ。
ところが安心してしまった私は左折する場所を通り過ぎてしまった。それに気づいたのはこのお店。入口には門や常夜燈があるが、
看板や店の名前はこんなにオシャレだ。休憩したいと思ったが山の中を歩いて汗をかき、汚れた状態では申し訳なく、次回の機会に訪問することにした。
帰宅後に調べたところ、こんなお店だった。
【参考】
来た道は戻らずにJR紀勢本線 三瀬谷駅の先にある踏切を渡って
道の駅 奥伊勢おおだいへ戻った。その途中でパ〜チリ。
【1】 道の駅 奥伊勢おおだい
道の駅 奥伊勢おおだいへ戻ると大台町観光協会へ立ち寄り情報収集。
その前には「北畠遺跡ウォーク」のイベント情報が掲示されていた。
周遊マップでの周遊時間の目安は見学時間を含まずに約2時間、私の場合寄り道が過ぎたのか、見学を含めて6時間(9時にスタートして、15時にゴール)の周遊であった。