『離宮院と参宮街道』講演会

2010年11月14日(日) 『離宮院と参宮街道』講演会 (自転車)

土曜日の新聞折込広告で次の講演『離宮院と参宮街道』を知った。講師は皇學館大学の岡田 登教授である。以前から岡田先生の講演を聴きたいと思っていたので、心うきうきしながら出かけた。

テーマが離宮院に関連することなので、聴講に先駆けて官舎神社と離宮院を訪問してから講演会場へ駆けつけた。

『離宮院と参宮街道』

『離宮院と参宮街道』

おばた参宮市

おばた参宮市

おばた参宮市

おばた参宮市

『離宮院と参宮街道』

『離宮院と参宮街道』

2階の講演会場へ入ると、続々と人が集まり会場は満席となった。

岡田先生の語り口は軽妙で、時には笑いがあり、あっという間に終ってしまったというのが実感だ。

『離宮院と参宮街道』

『離宮院と参宮街道』

皇學館大学 岡田登教授

皇學館大学 岡田登教授

『離宮院と参宮街道』

『離宮院と参宮街道』

皇學館大学 岡田登教授

皇學館大学 岡田登教授

講演の概要は、次のとおり。ただし、私の記憶とメモを元に起こしているので、間違いがあるかもしれない。

小俣の宝み~つけた事業(講演会)
テーマ: 『離宮院と参宮街道』
講師 : 皇學館大学 文学部 岡田 登 教授
日時 : 2010年11月14日 10:15~12:00
場所 : おばた図書館2F会議室

【概要】
当初、斎宮は内宮の宮域内にあったが、雄略天皇の皇女稚足姫(わかたらしひめ)が斎王を勤めていた時、神鏡(八咫鏡)を持ち出し雲隠れする事件が発生した。そのため、斎宮は内宮から15kmほど離れた現在の明和の地へ移された。斎宮には斎宮寮と呼ばれる斎王の公私に仕える組織があり、私的生活では内待以下多数の女官と、公的生活(斎宮寮)では頭(かみ)を筆頭に12の司(つかさ)総勢500名余で構成された。
平時を斎宮で過ごす斎王も年に三回だけは祭祀のために内宮と外宮へ参向された。それは三節祭、六月と十二月の月次祭(つきなみさい)と神嘗祭(かんなめさい:旧歴の九月、現在の十月)であった。年に三回とはいえ、斎宮(明和)から神宮へは日帰りはできないため、中継点として離宮院が造営された。当初、奈良時代の離宮院はJR伊勢市駅の近辺(高川(河)原)にあったとされるが、宮川や、豊川、清川、馬瀬川など網の目に流れる川の氾濫が問題となり、797年(平安初期)に湯田郷宇羽西(うわぜ:上地)村へ移された。斎王の参向には100人を越える斎宮寮が随行するため、離宮院には斎王だけでなく彼らをも受け入れる宿泊施設や設備が必要であった。また、「神宮雑例集」によると離宮院は大神宮司(現在の神宮司庁)の機能も有していた。さらに、勅使の宿泊施設の役割も担っていた。など、これだけでも大規模な施設であったことが想像できる。824年には離宮院に斎宮の機能が移されたため、規模的には明和の斎宮跡を遥に越えるものであったと考えられる。
その後、839年には火災により離宮院にあった100棟余のすべての建物が完全消失したため、斎宮は明和へと戻された。とはいえ、斎王の参向に必要であった離宮院は再建された。再建には伊勢だけでなく尾張からも米が運ばれたが、その際、離宮院の周辺を流れる汁谷川や外城田川の水利が役立った。時が過ぎ南北朝時代、後醍醐天皇の時になると斎王制度が形骸化し、消滅した。そのため、斎宮は廃れてしまったが、離宮院には大神宮司(現在の神宮司庁)の機能があったために維持された。

斎王の参向では、おかげ参りに利用された参宮街道からは外れた大仏山(筒岡)を通るコースが利用された。このコースの途中には多気郡と度会郡の堺があり、堺祭が執り行われた。堺とは坂会いであり峠である。そして「さかい」は榊にも通じる。また、筒岡には神宮の大宮司であった大中臣氏(藤原氏と同族)の氏神(春日大社の分霊)が祭られていた。この分霊は後にこの地から離宮院跡の近くへ官舎(みやけ)神社として移され、現在は「かんしゃじんじゃ」と呼ばれている。
交通機能の発達に伴い、徒歩によるおかげ参りの時代から鉄道を利用する時代へと移り変わった。明治26年には参宮鉄道の終着駅として宮川駅(現在のJR宮川駅)が作られた。しばらくすると鉄道が宮川を越えて伊勢まで延びることとなるが、当時は宮川で禊をしてから伊勢の地へ入って欲しいと願う地元の声が強く、宮川駅止まりとなっていた。宮川駅ができると駅を中心として町が拡がり、離宮院の土塁等がどんどん壊された。昭和54年の発掘調査では離宮院跡とJRの線路との間から八脚門(はっきゃくもん:内宮の御正宮で参拝する場所に立つ門と同等の規模)の遺構が発見された。門がこの位置にあることから離宮院はこの北側に広がっていたと考えられ、現在の住宅街の下には長い歴史が積み重ねられていることになる。それゆえ、離宮院跡だけでなく、この地域全体が屋外博物館なのだ。

今年、平成22年は、文政13年、明治23年、昭和25年に引き続き60年周期で訪れるおかげ年である。江戸時代の宇治・山田の人口は約3万人、渡しを利用して宮川を渡った参詣者は1日で22万人との記録がある。当時は昼夜を問わずに渡しが運行されていた。また、松阪商人は炊き出しをして参詣者に振る舞い、食べるものがなくなるとお金を渡した。伊勢の御師は方言による意志の疎通を配慮して宮川を渡った京町(昔は中河原)に出身地域別に個別の休憩所を設けた。さらに各地域の言葉が通じる(方言を話せる)案内人が御師の館まで連れて行った。御師は人の顔を見て損得勘定する「もてなし」ではなく、参詣者は天照大御神と豊受大御神の客人として「お世話する」という意識で対応していた。

講演終了後に、おばた図書館の2階の階段付近に小俣町での遺跡発掘に関する資料が展示されていたのでチェックすると、講演で話題に上っていた離宮院の八脚門に関する資料や、

離宮院址 八脚門址ほか

離宮院址 八脚門址ほか

離宮院址 八脚門址ほか

離宮院址 八脚門址ほか

離宮院址 八脚門址ほか

離宮院址 八脚門址ほか

出土土器が展示されていた。

離宮院発掘調査 出土土器

離宮院発掘調査 出土土器

離宮院発掘調査 出土土器

離宮院発掘調査 出土土器

【参考】

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