2011年04月16日(土) 近鉄 お伊勢参り 第三回 その3/3 十二柱神社から長谷寺へ (車、電車、徒歩)
近鉄 お伊勢参り 第三回 その2/3 玉列神社から十二柱神社へ で十二柱神社へ到着した。
参道の右側には社標と常夜灯が並んで建っていて、常夜灯には太神宮と刻されている。
早速、参道を進むと「歴史街道」の幟が。
さらにその幟に隠れるようにこの古びた案内板がある。じっくりと読んでみると「相撲開祖 野見宿禰 五輪塔」と書かれているようだ。
五輪塔は右手の石積みの上にあるようでボランティアガイドの姿が見えた。
これが五輪塔の上部だ。
石階の下にはこの案内がある。
左側の掲示が、
十二柱神社
祭神:
神世七代(かみよのななよ)の神
・国常立神(くにとこたちのかみ)
・国狭槌神(くにのさつちのかみ)
・豊斟渟神(とよくもぬのかみ)
・泥土煮・沙土煮(うひじに・すひじに)の神
・大戸之道・大苫辺(おほとのじ・おおとまべ)の神
・伊邪諾・伊邪冊(いざなぎ・いざなみ)の神
・面足・惶根(おもたる・ かしこね)の神
地神五代の神
・天照大神(あまてらすおおかみ)
・天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)
・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
・彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)
十二柱神社は「出雲ムラ」の村社。
大昔は、社殿がなく、「ダンノダイラ」(三輪山の東方1700メートルの嶺の上にあった古代の出雲集落地)の磐座(いわくら)を拝んだ。
明治の初めごろまで、年に一度、全村民が「ダンノダイラ」へ登って、出雲の先祖を祀り偲んだ。一日中、相撲したり遊んだり、食べたりした(出雲ムラ伝説)
西脇弥之吉(にしわきやのきち)氏(当時83才)より聞く。
1964年(昭和39年7月)
奈良県桜井市出雲
野見宿禰顕彰会
右側の掲示は、
「出雲(いずも)ムラ」の伝誦(でんしょう)
「野見宿禰(のみすくね)」さん
日本の国技相撲の発祥(はじまり)であるーー当麻蹶速(たいまのけはや)と相撲して勝った「野見宿禰」さんは、この「出雲」に住んでいた。野見宿禰塚は明治16年まで、出雲村大字太田小字塔の下にあった。
「野見宿禰」さんは、相撲の神様であり、埴輪(はにわ)の神様であることが日本書紀に記されている。
さらに、「野見宿禰」さんは、古墳(こふん)時代に殉死(じゅんし)の悪習をやめて、埴輪に改革した名アイデアマンで、知徳の神様でもあった。五輪塔
高さ2.85メートルの巨大な五輪塔は、鎌倉時代のもので野見宿禰塚の上にあった。四面に単独梵字仏(ぼんじぶつ)(20体)と、地輪(じりん)に1字1石経(23)が納められている全国でも珍しい古塔である。狛犬(こまいぬ)と、それを支(ささ)える力士像
土師部(はじべ)(上代、土器(どき)作り部民)の子孫が土器作りの高い技能と経験を石材彫刻に活用した埴輪の味がする芸術作品である。更(さら)に、狛犬を支える力士像(8体)は、それぞれ異なった姿形力士像で写実的に力強く表現しており、相撲と埴輪の集大成(しゅうたいせい)した傑作(けっさく)である。「出雲ムラ」の土人形
明治のはじめ頃まで「出雲ムラ」あげて土人形作りをしておった。(窯元(かまもと)10軒、売店30軒、当時出雲ムラ戸数110)。当時の出雲ムラの地場産業(じばさんぎょう)で、ムラは大いに賑わっていた。(日本古代史の周辺ーー金谷克己著より)その古作品が近年、相次いで発現している。出雲人形
明治後期から水野徳造氏が、もみがら焼き製法で埴輪説話と結びつけて水野家流の出雲人形を作った。現在、水野佳珠(かず)さんが、後継者として活躍中。その他
いままで、未知の「出雲ムラ」の古代の姿が、次から次へと新発現してきた奈良県桜井市出雲
野見宿禰顕彰会
石階を上ると鳥居の手前右手には手水舎があるが、
手水石には水が張られていなかったので、とにかく形だけでも心身を清めた。手水石をよく見るとここにもいくつかの盃状穴を確認できた。
鳥居の手前には、先ほどの説明にもあったように
力士像が狛犬を支えている。
これだ。
この狛犬は非常に力強い。咆哮しているようにも見える。
鳥居をくぐり右手を見ると先ほどの五輪塔が見える。
ボランティアガイドが丁寧に説明されていた。
ここにも五輪塔の由来が記されていた。
相撲開祖野見宿禰五輪塔由来
垂仁天皇の御代、天皇は野見宿禰と当麻蹴速を三輪山西麓の皇居纏向珠城宮に召して相撲をとらせ、宿禰が蹴速を倒した物語は「日本書紀」に記載されてある。
その相撲跡カタヤケシは現桜井市大字穴師にあり、相撲起源の伝承地として広く世に知られている。
当出雲地区には、古代より野見宿禰の古墳と言い伝える壮大な塚があり、旧出雲の村人らは鎌倉初期に五輪塔を建立し、その祖神宿禰を氏神として長く崇敬していたが、明治十六年農地整理により塚は形を失い、墳上の塔をここに移して祀った。
物語は古墳文化時代の四世紀前半のことと推定されるが、出雲村の宿禰がこの地より珠城宮に召された伝承は、神話伝説の構成と大和王朝の成立過程、万葉集の歴史地理の調査、研究から考察して史実の反影を示す重要な存在であることは明らかである。
よってここに日本建国の功労者、相撲開祖及び土師氏の祖、野見宿禰の五輪塔由来を記し、その旧跡とこの文化遺産を長く世に伝えたいと思う。
昭和四十年十二月
財団法人日本相撲協会 相撲博物館嘱託 池田雅雄謹説
また、境内では別のボランティアの方が説明されていた。
五輪塔についても絵を活用してわかりやすく説明してくれた。
後になってしまったが、参拝となった。
拝殿と社務所が渡り廊下で繋がれている。
本殿はこちら。
拝殿の右側には、泊瀬烈城宮伝承地があり、
祠には「武烈天皇社」と書かれている。また、ここにも狛犬が配置されている。
この祠の前には武烈天皇泊瀬列城宮趾の石碑があり、
この案内板がある。
武烈天皇泊瀬列城宮伝承地
武烈天皇は、小泊瀬稚鷦鷯天皇(をはつせのわかささきのすらめみこ)とあり、仁徳天皇の大鷦鷯(おおささき)と対(つい)の名をもつ。これは、仁徳の皇系が武烈天皇で絶えるため、仁徳を聖帝・武烈を暴君として描くのと同じ考え方であろう。武烈があまりの悪政非道な政治をしたから、仁徳の皇系は絶えたことを記紀では強調しているが、実際のところはわからない。壇場(たかきみくら)を泊瀬列城に設けたとあり、初瀬谷の中央、この出雲の地あたりかと考えられている。
桜井市教育委員会
すぐ近くにあるこの高木が印象的だった。
拝殿の前にはこれだけ多くの常夜灯が並んでいる。なかなかない光景だ。
狛犬の手前の鳥居をくぐり、十二柱神社を後にした。
参道を出て左へ進むと、この風景の先に
国道165号線の「出雲」交差点がある。
ここで歩道橋を渡り、国道から離れた旧道を歩いた。
途中にこの行く先表示があった。帰宅後に調べたところ狛・岩坂(こま・いわさか)地区で棚田があり、この時期は菜の花が咲いているそうだ。寄り道するには時間が必要だろうが、今となってみれば寄り道してみたい居場所だ。
右手に川の流れを見ながら進むと、
グラウンドの先には
校舎が見えてきた。
国道165号線と合流すると
こちらが耐震補強された桜井東中学校だ。
国道に沿ってさらに進むと、左「白河」、
さらには、右「長谷寺駅」の道路標識が見える。
この歩道橋を越えると
次の路地で右側へ誘導された。今回の近鉄ハイキングでは水辺の広場が昼食最適地と設定されていたので、そちらへの集められた。
川辺は草が焼かれたあとがあり、焼け跡の臭いが強烈に漂っていた。ここでは昼食を取れないので、この先の広場へ向かい、
広場の隅のフェンスに寄りかかりながらの昼食となった。恒例のおにぎり三個、これは【キタヰの妻】も同じだった。
この場所でもボランティアガイドが説明をしてくれていたが、参加者は昼食に忙しく集中して聞いている人はほとんどいなかった。ガイドの方が可愛そうだったよ。
短時間で昼食を切り上げて長谷寺へ向けて出発しようすると、丘の上、墓地の近くに鳥居が見えた。今日の予定地では無さそうだが・・・
これだ。
トイレを借りた後
広場の国道沿いにある桜井市観光案内所(初瀬観光センターの看板もあり)に寄り、2~3のパンフレットをもらった。
その後、国道165号線へ戻り、長谷寺の参道を目指すと
右側にはこの建物。なんと駐在所だ。瓦葺きの立派な建物だ。門前町だけある。
駐在所の先には初瀬西交差点があり、
この左手が長谷寺への参道だ。
この場所には見落とされそうな場所に祠がある。
こんな感じの参道がつづくが、
右手に鳥居を発見した。
コースマップには設定されていないが、寄り道好きな私は【キタヰの妻】と別行動でこちらへ立ち寄ってしまった。そこは、長谷山口坐神社だ。
【参考】 参拝の様子はこちら、 長谷山口坐神社
長谷山口坐神社への参拝を終えると、元の参道へと戻った。
参道沿いには祠、神社、寺が多い。
長谷山口坐神社への参拝に時間がかかったので、【キタヰの妻】の気配は全くなかった。とにかく追いつこうと懸命に急ぎ足で歩いた。
ただし、ときどきのパチリは忘れずに・・・
隣の庭からの松の枝が郵便局の前まで延びている。
こちらは、井谷屋。
ここは伊勢辻だ。この辺では草餅が焼かれている。見た目は、伊勢のへんば餅を緑色にしたような感じだ。
さらに進むと、右手に與喜天満神社授与所、
その隣に、紅梅が立っている。
また、その先左手には白髭神社がある。この神社に寄ろうかと迷ったが【キタヰの妻】が待ちくたびれているといけないので、寄り道は後回しにすることにした。
さらに進むとこの場所、天神道の道標の近くで【キタヰの妻】は待っていた。かなり待っていたようだった。(ごめん)
ここからは長谷寺への参道を離れ、與喜天満神社へ向かう石段の参道を登ることになった。
初瀬川に架かる天神橋からの長谷寺方面の眺めは見事なものだ。桜の時期は少し過ぎてしまっていたが、それでもまだまだ大丈夫だった。
最高な時期なピンク一色に染まるのだろうか?
さらに石段を登ると左手には
男女を円満にする男女(めおと)岩があり、擦るとご利益があるそうだ。歩きながらひと擦り。(これじゃご利益はないかな?)
隣には社務所がある。何でこんなところにあるのだろう?
さらに石段を登り振り返ってパチリ。かなり登ってきたものだ。
與喜天満神社はこの鳥居をくぐってさらに山の上にある。
コースマップには設定されていないが、寄り道好きな私は與喜天満神社鳥居をくぐった。【キタヰの妻】はこの場所でしばらく休憩していた。
【参考】 参拝の様子はこちら、 與喜天満神社
與喜天満神社への参拝を終えると、【キタヰの妻】と合流して長谷寺を目指した。
與喜天満神社の朱色鳥居の左側にこの道標がある。
近鉄ハイキングの赤い矢印シールに従うと急な下り坂となり
この高さから一気に
川沿いまで下った。(これは多分、中之橋)
橋を渡れば長谷寺の参道へ出るが、ルートは直進だったので川沿いにさらに進むと
この案内板(天然記念物与喜山暖帯林)がある。
最後に、連歌橋で初瀬川を渡り、
まっすぐ進むと、長谷寺へと入って行った。
今回の 近鉄 お伊勢参り 第三回 のゴールは、長谷寺の仁王門の手前の広場にあった。
ここから先は拝観料が必要なのでその点が配慮されてのゴール設定なのだろう。
まずはゴールでスタンプ帳にハンコを押してもらった。
この後は、【キタヰの妻】が期待に胸を膨らませている長谷寺へのお参りとなった。
【参考】 お参りの様子はこちら、 長谷寺(花の御寺)
【近鉄 お伊勢参り ハイキング 第三回 仏教伝来之地碑から花の御寺・長谷寺へ 20110416の記録】
- 近鉄 お伊勢参り 第三回 (近鉄桜井駅から玉列神社へ)
- 近鉄 お伊勢参り 第三回 (玉列神社から十二柱神社へ)
- 近鉄 お伊勢参り 第三回 (十二柱神社から長谷寺へ)
- → 長谷山口坐神社
- → 與喜天満神社
- → 長谷寺(花の御寺)
- 長谷寺参道から近鉄 長谷寺駅へ
- 近鉄 伊勢市駅付近の500円/24時間 パーキング