鶏足山 野登寺(上寺)

2013年03月30日(土) 鶏足山 野登寺(上寺) (車、徒歩)

坂本棚田~ミツマタの森~野登寺(上寺) にて、NTTコミュニケーションズ 野登無線中継所から踏み跡に従って斜面を下ると野登寺の境内へ出た。

【参考】

 

詳細は、公式ホームページに譲るとして、ここでは撮影した写真の紹介とする。なお、公式ホームページでも説明されているように野登寺(やとうじ)には山上と里の二ヶ所に寺があり、山上の寺は上寺、山麓である里の寺は下寺と呼ばれているそうだ。よって、こちらは鶏足山 野登寺(上寺)だ。

 

本堂の脇に出て、

鶏足山 野登寺(上寺)

鶏足山 野登寺(上寺)

振り返ると宝篋印塔が建てられている。その後ろには杉の大木が多数。

鶏足山 野登寺(上寺)

鶏足山 野登寺(上寺)

さらに下って、パチリ。石造りの祠。

鶏足山 野登寺(上寺)

鶏足山 野登寺(上寺)

しかも、左右に並んでいる。

鶏足山 野登寺(上寺)

鶏足山 野登寺(上寺)

 

そして、本堂の右手には、

鶏足山 野登寺(上寺)

鶏足山 野登寺(上寺)

次の場所がある。

鶏足山 野登寺(上寺)

鶏足山 野登寺(上寺)

その手前には、「寛延四・・・」と刻された常夜燈が建っている。

鶏足山 野登寺(上寺)

鶏足山 野登寺(上寺)

その右手には次の案内説明板がある。

「雨壷の社」の説明板(鶏足山 野登寺(上寺))

「雨壷の社」の説明板(鶏足山 野登寺(上寺))

雨壷の社
開山仙朝上人は、延喜14年(914)夏、こ
の地が大干ばつに見舞われ困り果てた里人
たちの懇願を受けられ、千住観世音菩薩の
修法による天竜八部護法を厳修されるや、
突如雷鳴と雨雲を呼び、盆の水をひっくり
返したような大雨を降らせた。爾来今でも
日照りが続き、田植えができない時には地
元をはじめ、遠く芸濃からも雨乞い祈願に
参拝されます。
            野登寺縁起

 

石段を上がり、屋根の下を覗くと

雨壷の社(鶏足山 野登寺(上寺))

雨壷の社(鶏足山 野登寺(上寺))

こんな感じ。底は見えている。

雨壷の社(鶏足山 野登寺(上寺))

雨壷の社(鶏足山 野登寺(上寺))

 

続いて、本堂の

鶏足山 野登寺(上寺)

鶏足山 野登寺(上寺)

正面へ移動し、

鶏足山 野登寺(上寺)

鶏足山 野登寺(上寺)

左からパチリ、パチリ。

鶏足山 野登寺(上寺)

鶏足山 野登寺(上寺)

鶏足山 野登寺(上寺)

鶏足山 野登寺(上寺)

扁額には「山足鷄」の文字が見える。

鶏足山 野登寺(上寺)

鶏足山 野登寺(上寺)

彫刻もパチリ。

鶏足山 野登寺(上寺)

鶏足山 野登寺(上寺)

本堂の左手には次の説明板が立っていた。

鶏足山 野登寺(上寺)の説明板

鶏足山 野登寺(上寺)の説明板

亀山市指定文化財
 野登寺本堂・庫裡・鐘楼
      市指定 昭和四六年三月二二日
 野登寺は、醍醐天皇の勅命を受けた仙朝上人が
延喜七年(九0七)から十年(九一0)にかけて
伽藍を造営したと伝えられる古刹である。
天正十一年(一五八三)兵火により全山消失し、
その後亀山城主の寄進を受け復興したとされる。
 平成十年台風七号により被災し大きな損傷を
受けたが、平成十二年度から十四年度にかけて
実施された「野登寺本堂・庫裡・鐘楼」修復事
業により破損箇所の復旧に併せて創建時に近い
状況に復原している。

○本 堂
 桁行三間、梁間四間、入母屋造で、背面に半間
の下屋、前面に一間向拝が付き、南面する。前二
間を外陣、後二間を内陣とし、内陣西側には二間
の下屋が付き、下屋を除き正側三面に縁が廻る。
内陣来迎柱は間隔を接近して配し、その前にも円
柱をおいて四円柱間を囲って造り付けの厨子とし、
本尊木造十一面観音菩薩像を安置する。厨子扉等
に見られる笠竜胆紋は、亀山城主石川家の祈祷所
であったことを示している。屋根が当初桧皮ある
いは板葺きであった可能性があるが、明治十四年
(一八八一)に銅板葺きに改められている。山麓
の本堂(護摩堂)に保管される棟札に安永六年(
一七七七)の上棟銘がみられ、建築様式からもこ
の年代で相違ないと考えられる。

○庫 裡
 桁行五間、梁間七間の入母屋造で東面する。屋
根は銅板葺とする。正面中央の向拝は、当初破風
を持つ形であったものを、近年流れ屋根に改めら
れている。向かって右側に二間の下屋を設ける。
向かって左側に前に八畳、後ろに六畳の間とする。
右側二間半は土間とする。庫裡にかかる建立、修
復の記録は見られないが、様式からは江戸後期以
降、鐘楼と時期を大きく隔てないものと考えられ
る。

○鐘 楼
 一間四方の入母屋造で、円柱四方転び、天井は
格天井、屋根は銅板葺とする。梵鐘(未指定)は
無銘。平成十四年度の修復事業において。梁に明
治ニ七年(一八九四)の造立銘が発見され、本鐘
楼の再興時期がうかがえる。

平成十五年十月
  亀山市教育委員会

 

本堂前の石段を下りかけて

鶏足山 野登寺(上寺)

鶏足山 野登寺(上寺)

振り返るとここにも説明板があった。

鶏足山 野登寺(上寺)

鶏足山 野登寺(上寺)

石燈籠
天保三壬辰年三月 尾州海部郡大宝新田
長尾治右衛門重教 寄進

長尾家は尾張徳川家に信頼の厚い豪商であった。
尾張藩の命を受け伊勢湾の干拓にも取り組んだ。
天保年間、野登寺第45世照空上人との親交も深
く、息子の健康祈願にたびたび野登寺に参拝さ
れた。天保三年(1832)、すっかり息子の健康
を回復したことや自分が五十歳になった記念を
合わせ、感謝の心を込めて石燈篭を寄進された。

石段を下ると

鶏足山 野登寺(上寺)

鶏足山 野登寺(上寺)

右手には鐘楼がある。

鶏足山 野登寺(上寺)

鶏足山 野登寺(上寺)

鶏足山 野登寺(上寺)

鶏足山 野登寺(上寺)

こちらが無銘の梵鐘だ。

鶏足山 野登寺(上寺)

鶏足山 野登寺(上寺)

 

視線を左へ振ると水盤に

鶏足山 野登寺(上寺)

鶏足山 野登寺(上寺)

水が流れ続けていた。

鶏足山 野登寺(上寺)

鶏足山 野登寺(上寺)

 

再び石段前へ戻ると、石段の左手には石の祠が・・。

鶏足山 野登寺(上寺)

鶏足山 野登寺(上寺)

ここから左奥へと進むと小屋の前に

鶏足山 野登寺(上寺)

鶏足山 野登寺(上寺)

次の説明板があった。

「石橋地蔵」の説明板(鶏足山 野登寺(上寺))

「石橋地蔵」の説明板(鶏足山 野登寺(上寺))

 石橋地蔵
この石橋地蔵さまは、天保年間に、幼児を亡くし
た母親の願いで、照空上人が彫られたものです。
「亡くなった子どもたちの苦しみと、迷いの煩悩
を消して、次の世には元気な子どもとなって生ま
れ変わることができますように」との悲願が込め
られています。それ以来「女性は子宝が授かりま
すように、安産で元気な赤ちゃんがうまれますよ
うに」と多くの方が参拝され、この石橋地蔵さま
を渡られて、ご利益を受けてみえます。
 地蔵菩薩のご真言『オン カカカビ サンマエ
イ ソワカ』と三度唱え渡る

この石橋地蔵さまは、この小屋の中に置かれているものだとばかり思っていた。ところが実は名前の通り橋として溝の上に横たえられているそうだ。(帰宅後に公式ホームページで知った。予習の時間が無くて、この様な事態になることが多い。どうも成長していないようだ。は、は、は、)

 

また、こんな池もあり、

鶏足山 野登寺(上寺)

鶏足山 野登寺(上寺)

その近くには桜が植えられていた。

鶏足山 野登寺(上寺)

鶏足山 野登寺(上寺)

 

こちらが庫裡。

鶏足山 野登寺(上寺)

鶏足山 野登寺(上寺)

庫裡の前からの風景をパチリ。

鶏足山 野登寺(上寺)

鶏足山 野登寺(上寺)

目の前には杉の大木が多数・・・。

鶏足山 野登寺(上寺)

鶏足山 野登寺(上寺)

 

 

そろそろ野登寺を後にすることとし、下側の石段を下った。

鶏足山 野登寺(上寺)

鶏足山 野登寺(上寺)

途中で、振り返ってパチリ。

鶏足山 野登寺(上寺)

鶏足山 野登寺(上寺)

下りきってからもパチリ。

鶏足山 野登寺(上寺)

鶏足山 野登寺(上寺)

左手に延びる参道へ進んだ。

鶏足山 野登寺(上寺)

鶏足山 野登寺(上寺)

振り返ってパチリ。

鶏足山 野登寺(上寺)

鶏足山 野登寺(上寺)

山門をくぐってからも振り返ってパチリ。

鶏足山 野登寺(上寺)

鶏足山 野登寺(上寺)

 

この後は、ここから野登山をピストンし、鶏足山表参道を下り坂本棚田へ戻った。

 

【 20130330 の記録 】

 

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