2011年08月28日(日) 近鉄 お伊勢さん125社めぐり(第8回磯部・鳥羽7社) (徒歩、電車、徒歩)
今日はお伊勢さん125社めぐりの第8回目、磯部めぐりと鳥羽めぐりの合体版だ。集合場所が近鉄 志摩磯部駅だったので自宅から宇治山田駅まで歩き、8時19分発の鳥羽行快速急行に乗った。8時34分に鳥羽駅へ到着すると乗換時間3分で別のホームから二両編成の賢島行き普通列車が出発した。鳥羽から志摩磯部までは、鳥羽・中之郷・志摩赤崎・船津・加茂・松尾・白木・五知・沓掛・上之郷・志摩磯部の各駅へ停車となるので26分の乗車となった。
そして、9時03分に志摩磯部駅へ到着。多くのハイカーが降車した。私は降車後、賢島行きの普通列車を見送ってから最後に改札へ向かった。
ホームから階段を上がり改札を抜けると、参加受付用のテーブルが準備されているものの受付はまだ開始されていなかった。開始予定は9時半だから、まだ早かったのだ。しばらくして準備が整うと受付が開始された。これだ。(ただし、受付開始前はもっと長い列だった。)
私もコースマップを受け取って、ハイキング、スタート。
近鉄 志摩磯部駅前のロータリーをパチリ。
さらに、志摩磯部駅の駅舎をパチリ。志摩スペイン村があるので、それなりの雰囲気に造られている。
まずは、伊雑宮の所管社である佐美長神社へ向かった。駅前のロータリーを出て、交差点を右折するとその先には社叢が見える。
突き当たり、ここだ。Y字路の交差点で横断歩道の信号が青になるのを待っているとどんどんハイカーが溜まってきた。
信号が変わると集団が一気に移動したので、私は一呼吸置き、まずは社標を確認した。
続いて、鳥居。
さらには、鳥居の右手に見えた井戸もチェック。
ハイカーの動きが少なくなったので、鳥居をくぐり石階を上ると、
短い参道の先に広い空間が広がっている。
左手の社殿が佐美長神社で、
さらに奥に並ぶ小さな社はこちらも伊雑宮の所管社である佐美長御前神社四社だ。
ここで一気に5社への参拝となった。
本日は7社めぐりなので、残るは2社。ただし、これからが・・・
佐美長神社を後にすると、コースマップに従い先ほどの交差点で路地(私は通ったことがなかった)へ入った。その突き当たりは神路川だ。パチリ。
突き当たりを左折して、川沿いを20~30m歩くと足元に近鉄ハイキングの赤い矢印が立っていた。ここだ。この細い路地へ導いていた。
路地へ入り、道なりに進むとその先には、磯部郷土資料館。
磯部郷土資料館へ入ると、
次のパンフレットを手渡して頂いた。
一階には図書館等があり、二階が展示スペースになっている。二階では常設展示と合わせて企画展「先人に学ぶ 地震と大津波展」が開催されていた。
また、建物の外へ出ると建物の右手に道標等が集められていた。道路改良等で現地から回収されたものがこの場所に集められているとのこと。現地に戻せるものは戻してほしいものだ。
磯部郷土資料館を後にして先ほど見た神路川を渡ると、
車が通らない田んぼ道へと導かれた。
この先、農道を途中で右折すると、この道は神宮御料田へ続く。
前方左手には伊雑宮の社叢とその右側に神宮御料田。
神宮御料田へ到着すると、前面には黒木鳥居の先に穂を垂らしている稲が。周囲では稲刈りが始まっているが、この田の稲はまだ青々としていた。
これが毎年6月24日に御御田(おみた)、御田植祭が斎行される神宮御料田の全景。
神宮御料田を後に、隣に御座す伊雑宮へ向かうとこちら。
鳥居をくぐると左手に手水舎があり、心身を清めた。
その先の参道を進むと
奥の空間には伊雑宮とその左側には新御敷地が。
伊雑宮に参拝した後、
宮域内を散策した。まずは、忌火屋殿。
場所を移動して、左が忌火屋殿、右が修祓所。
忌火屋殿の所から宿衛屋へ戻る途中、左手には池がある。
さらにその先、宿衛屋の前には
巾着楠(きんちゃくくす)と呼ばれる独特な形状の楠が立っている。
楠を見上げる人。
私も場所を変えて、宿衛屋の前からパチリ。
全体はこんな感じだ。
これにて伊雑宮を後にした。
伊雑宮を出ると今までは右手方向、この方向へ向かったが、
今回のコースマップでは左手の「うなぎ中六」の前の路地を
進むと、国道167号線へ出た。
今回のめぐりでは、上之郷駅から志摩赤崎駅へは電車での移動と設定されているが、独自オプションを実施した。
そのオプションとは沓掛駅から青峰道(磯部道)へ入り、青峰山にある正福寺を経由して松尾駅へ下る青峰道(松尾道)を歩くことだった。結局は松尾駅での電車を待つ時間が長かったため、志摩赤崎駅までも歩くことになった。(その詳細は別途)
【参考】 今回の独自オプション
独自オプションを済ませると近鉄 志摩赤崎駅へ到着した。時刻は既に14時37分。私以外にハイカーは誰もいなかった。(当然だ。) とにかく、志摩赤崎駅から今回のめぐりを再開した。
一度、志摩赤崎駅のホームを眺めてから国道167号線へ戻り、
今回の最後の目的地である赤崎神社を目指したが、近鉄ハイキングの赤い矢印はどこにも見当たらない。既に回収されていた。まぁ、こんな時間までうろうろしているハイカーは私以外にいないだろう。(納得)
途中の踏切へ寄り道し、赤崎神社の社叢の下にある隧道を遠望した。
国道167号線へ戻り、さらに進むと右手にイオンの看板が見え、
進行方向には道路標識が見える。道なりに左へ折れるように曲がるとすぐ左手が
赤崎神社への入口である。
石段の右側には二種類の社標が建っている。
参道を進むと この先は右手に直角に折れ、さらに石段となる。
ここだ。実はこの右側に手水舎がある。手水舎で心身を清めてから、
赤崎神社へ参拝した。独占状態だった。
赤崎神社での参拝を終えると、コースマップに従い近鉄鳥羽駅へ向かった。まずは赤崎神社の近くにある中之郷第8号踏切を渡り、旧道を進むと
東川材木店を過ぎたその先には、
右手の角に旧広野家住宅がある。
玄関先にはこの案内板があった。
旧広野家住宅(登録有形文化財)
登録年月日ー平成18年3月2日
主屋 木造平屋及び2階建、瓦葺、建築面積231m2 登録番号24ー0058
内蔵 土蔵造2階建、瓦葺、建築面積41m2 登録番号24-0059
土蔵 土蔵造2階建、瓦葺、建築面積20m2 登録番号24-0060広野家の屋号を「かどや」といい、代々藤右衛門を襲名してきました。江戸時代後期の天保11年(1840)から20年間庄屋をつとめ、その間には大庄屋をもつとめ、20年間で藩に納めた運上金は千両余りに及び、その功績が認められ名字帯刀を許されていました。
文化7年(1810)からは、三僊堂(さんせんどう)という薬舗を創業し、飢饉の時には町民に給付金を与え、鳥羽小学校建設には多額の寄付をし、鳥羽のために尽力してきました。
この建物の右側の2階建部分は文政8年(1825)に建てられたもので、左側の1階建部は明治16~18年の大改修のとき、内蔵(明治16年新築)とともに整備されたものです。
ここにも赤崎神社の御神杉が掛けられていた。
配置図によると、これは内蔵だ。
旧広野家住宅から前方に直線の道路が続くので、まっすぐ進むと
途中左側に木造の常夜灯があり、その隣にはかなり年季が入った蔵がある。
先ほどの直前道路を突き当たりまで進むと、止まれの交通標識の先には旧鳥羽小学校の校舎跡が見えた。
コースマップに従い、少し左手にある階段を駆け登った。
旧鳥羽小学校への入口まで来るとこの風景だ。
登ってきた道路を折り返すとその先には
旧鳥羽小学校があり、
手前の階段を登ると
鳥羽城跡へ出る。現在、最上部へは立ち入りが禁止されていた。
石垣を右手に見ながら進むと
こちらにも立入禁止の看板があり、発掘調査中である旨の掲示があった。
高所から海を眺めながら、少しずつ高度を下げ、
城山児童公園へたどり着いた。
こちらでも、発掘調査が進められていた。
公園を後にしようと最後の階段へ向かうと日和山が見えた。日和山には方角石があるそうなので一度登ってみたい。駅から近くて低い山なのでいつでも行けそうだが、なかなか行けないのが現実だ。
階段を降りて、右手にへ進路をとると
ミキモト真珠島の入口が見えた。
右へ曲がり、川沿いを進むと国道42号線の下にはトンネルが作られている。このトンネルがあるのを初めて知った。
トンネルをくぐると、その先には「ミキモト真珠島」の名前とともに「歓迎 近鉄ハイキング お伊勢さん125社めぐり ご一行様」の文字が。そういえば、志摩赤崎駅からここまで、近鉄ハイキングの赤い矢印シールは皆無だった。時間が遅いので回収されたの当然だろうが、この掲示だけが私を待っていてくれた。「感動!」
しかしながら、私は不義理にもミキモト真珠島には立ち寄らず、鳥羽駅へ向かった。
真珠島への架橋を横目に見ながら、
鳥羽湾島めぐり 観光船のりばを通り過ぎた。
少し、後ろ髪をひかれたので、振り返りパチリ。
さらに進むと、私はこの掲示に釘づけとなった。「坂手村砲台跡」の文字だ。これは「近世以前の土木遺産」の三重県、鳥羽市の項目の一つだ。いつか行ってみよう。
乗り場の全景をパチリ。いつか来るよ。
そして、最後はカモメの散歩道。この散歩道を歩けば、ゴールの近鉄鳥羽駅へ到着する。
前方では、伊勢湾フェリーが出航だ。
どんどん速度を上げ、
伊良湖へと向かった。
私は黙々とカモメの散歩道を歩き、
近鉄鳥羽駅へと到着した。
今回のめぐりは、独自オプションがメインに匹敵するほど充実していたので、「一粒で二度おいしい」ハイキングとなった。駅で切符を購入すると三分後に電車が発車した。何とラッキーなことか。
【 20110828の記録 】
- 近鉄 お伊勢さん125社めぐり(第8回磯部・鳥羽7社)
【独自オプション】