2013年02月23日(土) 伊勢三座に思いを馳せながら栄通神社へ向かう (徒歩)
栄通神社(伊勢市通町)の例祭にて奉納される『通り能』を拝観するために、国道23号線を御薗町から通町へと向かった。
その途中、左手に次の光景が見える。
川面に映るクスノキの下には北向き地蔵。そして、その近くには・・・。伊勢三座のひとつであった青苧座跡の石柱が建っている。伊勢市史の民俗編によると、
伊勢三座とは伊勢猿楽には三つの座が存在した。和屋(後に和谷)、勝田(苅田)、青苧(青王)の三座で、これらを伊勢三座と呼ぶこともある。かつて和屋座は松阪市和屋町(旧飯野郡朝見村)、勝田座は玉城町勝田(旧東外城田村)、青苧座は松阪市阿波曽(旧射和村)を本拠地とした。これらの三座は伊勢国司であった北畠氏の庇護下で活動を続けていたが、天正四年(一五七六)十一月、織田信長に北畠氏が滅ぼされると、それまで参勤していた伊勢神宮との関係を深めるべく、神宮近くの河口に活動の地を移して存続を計ろうとしたのである。すなわち和屋座は一色町、勝田座は通町、青苧座は竹ヶ鼻町に安住の地を求めたが、そのうち青苧座は早くに絶えている。(伊勢市史 民俗編 P.300より引用)
とある。
今回は寄り道しなかったので、2010年11月8日に撮影した写真を利用した。
国道23号線から北向き地蔵へ向かい、
上流側へ戻ると次の石柱と説明板がある。
説明板のには「青苧大夫の旧跡」とある。
青苧大夫の旧跡 伊勢三座(猿楽) 鎌倉中期の頃から猿楽は、座を結成して寺社の法 会、祭礼にこの技を演じていたが、康永、文明の頃 には呪師和屋大夫(松阪市和屋)、刈田大夫(玉城 町勝田)、今呪師青苧大夫(松阪市阿波曽)の三座 が神宮に奉仕していた。 この三座は南北朝の初め頃、北畠氏の保護を受け 毎年恒例として神宮に神事猿楽を奉仕する特権を得 ていたが、北畠氏が勢力を失うに従い、和屋は一色 へ、勝田は通へ、青苧(青王、青翁とも書く)は 竹ヶ鼻に移ったのである。 青苧大夫(翁塚) 竹ヶ鼻区の西方に小字大塚があり、広さ十五、六 歩(約五十平方メートル)の凹地に青苧大夫の翁面 が、天より降下した所と言われ、毎年正月六日当村 の五穀豊穣を祈って、大夫が能楽を勤めたと言い伝 えられている。 青苧家絶家後、勝田大夫に依頼していたが、明治 維新後廃絶したと言う。 大塚の西に青苧の屋敷跡があり、名残の松の大樹 は明治三年九月十八日の大風雨によって転倒、今は 遺跡をも失われている。 幸いこの度伊勢市教育委員会による建碑を機会と して、当地の歴史の一端を語り続けられることを願 うものである。 平成十六年四月吉日 竹ヶ鼻町自治会
なお、石柱には「伊勢三座 青・」
国道23号線へ戻り、パチリ。
しっかりと、「伊勢三座 青苧座跡」の文字が読める。
以上、2010年11月8日撮影
北畠氏が滅んだ後、伊勢三座の各座は、和屋座は一色町へ、勝田座が通町へ、そして廃絶してしまった青苧座は竹ヶ鼻町へと拠点を移した。
これから向かう通町、は勝田座の流れをくんでいる。北向き地蔵からさらに歩くと勢田川橋にたどりついた。勢田川の対岸には栄通神社(通町)の社叢が見えた。
そして勢田川橋を渡りきる頃、勢田川下流側を望むと、
そこは伊勢市一色町だ。つまり、和屋座が拠点を移した場所だ。
伊勢三座に思いを馳せながら栄通神社へ向かった。
【 20130223 の記録 】
- 伊勢三座に思いを馳せながら栄通神社へ向かう
- 栄通神社例祭 奉納 通り能(伊勢市通町)
- 中堤から一色町への散策(伊勢市通町、一色町)
- 老人クラブ、中学生共同の堤防壁画制作(伊勢市神社港)