2011年08月16日(月) 宮川堤付近、度会橋(宮川)下流の堤跡? (ジョグ)
「近世以前の土木遺産」サイトへの画像データの提供 にて紹介したように、岡山大学大学院 教授である馬場俊介さんが監修されている「近世以前の土木遺産」 の三重県伊勢市の一覧には、宮川堤のほかに浅間堤、駿河堤、周防堤が紹介されている。
まず、浅間堤については、松井孫右衛門人柱堤(浅間堤) にて紹介した。ところが、宮川(右岸・度会橋下流)にあると記されている駿河堤、周防堤については存在が不明だ。
本日、久しぶりにジョギングで度会橋方面へ向かったので現状を確認してきた。
【名勝 宮川堤の標石】
まずは度会橋を目指した。度会橋の東詰には次の石標が建てられている。
さらに、この近くには案内板もある。
宮川堤 三重県名勝指定(昭和12年6月)
所在 伊勢市中島1丁目・2丁目・宮川3丁目
宮川はその源を大台ケ原山に発する、延長およそ91kmにも及ぶ、三重県最大の河川であります。
古く度会大河(わたらいのおおかわ)・度会川・豊宮川などと呼びました。
豊受大神宮(外宮)の「みそぎ」をする川であったからの名であろうとされています。
下流では古来しばしば氾濫をくり返し、住民はその度ごとにいいしれぬ苦難にさらされました。
平安の昔、平清盛の築堤伝承をはじめ、近世江戸幕府から巨額の援助を仰ぐなど、両岸住民の堤防の修築保全には、度重なる努力が続けられました。
宮川橋の辺りは桜の渡しとも呼ばれ、古くから桜の木が多くありました。明治4年(1871)この古木の保存と、さらに若木の補植を大いに奨励しました。
現在中島2丁目浅間堤の近くから、北へ宮川橋辺りまで約1km余の堤に沿う桜の並木約850本は、神都の春を彩るものとして近郊にきこえています。
その大部分はソメイヨシノであります。
平成2年(1990)3月3日、日本さくら名所100選にえらばれました。
伊勢市教育委員会
ここには、浅間堤についての記述はあるが、駿河堤、周防堤については触れられていない。また、この近くにいた地元の方にこれらの堤について聞いてみたが、不明のようだった。
そこで、宮川堤を宮川(右岸・度会橋下流)へ、つまり度会橋から桜の渡し跡がある宮川橋まで歩くと、
【参考】 神宮巡々での「桜の渡し」での検索結果は、 検索結果:桜の渡し
【宮川右岸、度会橋から下流へ向って最初の堤跡?】
【20110913補足】 宮川堤防の図(神宮文庫所蔵模写図) によるとこの堤は 「駿河堤」。
まず最初に現れるのがこの道だ。
宮川堤からは少し低くなっているが、河川敷よりも高い位置にある水平路が20〜30m続く。
その先はここだ。先ほど通った道を振り返ってパチリ。両側は斜面になっている。また。この場所にはかなりの石が・・・
ここには階段や通路が無かったので、斜面を駆け下りて度会橋が見える場所まで来た。
そして、そこで振り返って先程の堤跡?をパチリ。やはり、どう見ても堤に見える。
再び、堤跡?へ戻ると、斜面には石が張られている。
この光景をみると 「近世以前の土木遺産」サイトへの画像データの提供 でも紹介した「大湊波除堤石垣跡」を思い出した。
これが、まず最初に確認した堤跡? らしき場所だ。
【楠大明神】
宮川堤へ戻り、さらに下流方向へ向かうと、楠大明神がある。
【参考】 神宮巡々での「楠大明神」での検索結果は、 検索結果:楠大明神
【宮川右岸、度会橋から下流へ向って二番目の堤跡?】
【20110913補足】 宮川堤防の図(神宮文庫所蔵模写図) によるとこの堤は 「周防堤」。
楠大明神からさらに下流へ向かうと「宮川河口から6.6kmポスト」の近くに二番目の堤跡? が見える。
ここだ。水平部分が短く、すぐに下り坂となる。
坂を下り切ってから、振り返ってパチリ。
坂を上り返し、スロープの途中から度会橋方面をパチリ。
さらに、宮川堤へ戻る途中でパチリ。
これは河川敷側の離れた場所からの二番目の堤跡?、パチリ。
【宮川右岸、度会橋から下流へ向って三番目の堤跡?】
【20110913補足】 宮川堤防の図(神宮文庫所蔵模写図) によるとこの堤は 「棒堤」。
最後、三番目の堤跡? は「宮川河口から6.4kmポスト」の近くだ。
宮川堤から左へ入ると
河川敷から高い位置にある水平路はかなり奥まで続き、
倒れかけた木々の
さらに奥で行き止まりとなる。この先には宮川橋があるはずだ。
それを確認するために視線を左側へ振ると、宮川および宮川橋が見えた。
来た道を振り返るとこんな感じ。パチリ。左手に見えるのは宮川堤だ。
この先、宮川橋までの間には堤跡らしきものがないことを確認したので、宮川の河川敷を度会橋まで引き返すと最初の堤跡?よりも度会橋よりに次の大日権現社があった。
【大日権現社】
散策路から外れて、大日権現社へ近づくと
桜の古木の下にひっそりと歴史を感じさせる雰囲気の大日権現社と新しい標石にアンバランスさを感じた。
大日権現社にお参りした後、
高札を確認すると、これだ。
大日権現の由来
此地は寛永の頃松井孫(右)衛門が人柱になられてから元禄六年まで約百年の間絶えず台風などに会い増水の危険にさらされていた
此町に彦兵衛と言う町人が之の状態を見て祈願を続けておる時夢のお告げで天照大神様から大日如来を権化とされお祭りせよとの事であった彦兵衛は此場所に大日権現の碑を建てました
大日権現社
松井孫右衛門の尽力のあとも天災は猛威を振るっていたようだ。駿河堤、周防堤が元禄の頃の築堤であることから、大日権現社等へのお祈りだけでなく、土木工事による防災対策も具体的に成されたようだ。
今回の現地調査では、宮川右岸、度会橋から宮川橋までの間に、3本の堤跡?らしきものを確認した。石張りの斜面が特に興味深い。今後は伊勢図書館のふるさと文庫にて、駿河堤、周防堤について調べてみよう。