2013年04月13日(土) アスピア玉城~弘法石~(山コース)~旧国束寺跡 (車、徒歩)
先日、二見町にある民話の駅 蘇民にて次のパンフレットを見つけた。玉城町のパンフレットで、編集しているのは三重のタウン情報誌「月刊Simple」を発刊している株式会社ゼロ。
特に「ふらっと玉城」はかなりよくできた情報マップで、次の「ハイキングに行きたい!」国束山(くづかさん)に見入ってしまった。
国束山については次の道標でも、
さらには度会町の観光マップでも国束山が気になっていた。
【参考】 平生~坂井エリア|度会町観光案内
結局、以前から興味を抱きつつも足を運ぶ機会が得られなかった国束山へ向かうように背中を押してくれたには「ふらっと玉城」だった。ということで、7時半頃に自宅を出発してアスピア玉城を目指した。
今日の予定は少し欲張りで、玉城町と度会町、国束山、旧国束寺跡、移設された國束寺を巡る、しかも往路と復路は別のルートを歩くこととし、次のコースにした。
【今日のコース】
アスピア玉城→弘法石→(国束山 山コース[尾根コース])→旧国束寺跡→國束寺[度会町平生]→旧国束寺跡→国束山→国束山谷コースへの分岐→鳴子山(往復)→国束山谷コースへの分岐→(国束山谷コース)→弘法石→アスピア玉城 (赤文字:本記事分)
「ふらっと玉城」マップに紹介されているようにアスピア玉城の大駐車場に車を駐めて歩き始めた。
「ふるさと味工房アグリ」の脇を通り、その裏手にある叺池の畔を歩き、
伊勢自動車道原高架橋へ向かった。
原高架橋の下をくぐると
その先には左右に池がある。左手には新池、
そして右手にはヒジヤ池。
ここが新池とヒジヤ池の間にある分岐。私はここで大きな間違いを犯してしまった。
この手前でフライフィッシング用の竿を手にした釣り人と挨拶を交わし、無意識のうちに右側の林道を進んでしまった。左側はアスファルト舗装の道路で右側は土道。実は右側はミスコースだった。弘法石までは迷うこともないだろうとたかをくくっていた私だった。
結局、林道の先を行ったり、来たりを繰り返し
最初の分岐まで戻ってきた。アスピア玉城を出てからすでに一時間が経過していた。
「さあ、どうしよう?」 一息ついていると、「あっ、道標がある!」分岐の中央に次の道標が建てられていた。最初から冷静にこの道標を見つけていれば・・・。
ここで仕切り直して、まずは弘法石を目指した。
しばらくは新池を左手に見ながら池を巻くように進むと
途中で新池から離れ、新池へ流れ込む百瀬川左岸となった。
道なりに進み橋を渡ると
その正面に弘法石がある。
屋根で覆われた弘法石の前には二種類の説明板が建てられていた。
弘法石(こうぼういし) 弘法石はその昔、国束寺参道に沿って流れる百瀬川の 西岸(この位置から約五十米上流)にあり、地元の古老 の話によれば「今から約二00年程前、原区の村民たち が東岸に移そうと試みたが、綱が切れ川底に落としてし まったらしい」との云い伝えがありました。 ところが、平成四年三月災害復旧工事(平成三年一九 号台風)の途中、土砂に埋まった弘法石を発見し、同区 では川から引き揚げ安置供養をし、さらに天蓋も平成五 年八月有志の方々により取り付けられたものです。 長さ約二・五米、幅約二・0米、厚さ一・五米、重さ約 二・五トンのこの巨石の表面中央に梵字と「南無・・・」 右隅には「貞享五年戊辰三月」(江戸時代中期)中央下 部に「□海敬白」とうの文字が薄らと刻まれているのが 分かります。 弘法石と云われる由縁は、その昔弘法大師(空海)が 国束寺に参詣、弁財天堂(ご本尊弁財天)を勧請したと の由緒寺記があり、後世の村人が高僧 弘法大師を崇め、 シンボルとしてこの巨石に梵字と「空海敬白」を刻して これを国束寺の麓に建立したのではないか、と云い伝え られています。また、この巨石の出現と同時に同区内 (現在地より約一・五キロメートル下る)で温泉の湧出 もみたため、縁起をかつぎ玉城弘法温泉と名付けました。 平成五年 玉城町
旧国束寺参道 玉城町、度会町にまたがる国束山(四一三.八米)は かつて山頂に十一面観世音菩薩を本尊とする涌福智山 国束寺があり、数々の堂塔を配して終戦後まで遠近の 信仰を集めていました。 (今はその一部が度会町平生国束寺に移建)また、 清冽な谷川の水がほとばしる桶石の傍には、国束参道 の美しい山桜の光景を歌った金森得水の句碑が建ち (田丸城郭内内奥書院庭園に移建)参道に沿って流れ る百瀬川の西岸には貞享五年(一六八八)に刻まれた 「弘法石」と呼ばれる念仏碑があって、四季を通して 登山者の憩いの場となっていました。 その昔里人が引き出そうとしてかなわなかったこの 「弘法石」は、いつしか人の目に触れぬまま川底に 眠っていましたが、平成四年春原区ではこれを引き上 げ、ここにおまつりして里人の安全をお守りしています。
弘法石に向かって右手に延びるコンクリート舗装の坂道を進み
左手の「と石」(岩の真ん中には雨樋のような直線の凹みがあり、水が流れている)」を過ぎると
「国束山登山口」の案内板がある。
ここから左へ入り、尾根へ進むのが「山コース[尾根コース]」で、さらにコンクリート舗装された坂道を進むのが「谷コース」。
予定通り、山コースを登り始めた。
すでにミスコースでウォーミングアップは終わっているので軽快に進んだ。
右手に石仏?
頭部が欠落しているお地蔵さんだ。
さらに高度を上げると
今度は左手に
「是より十丁」の地蔵丁石。
ここを過ぎると足元の石は少なくなり歩き易くなった。
そして、次に現れたのが分岐、左は的山。お伊勢さん125社まいりで何度か訪れている的山公園へ通じるルートだ。今回は(国束山)、鳴子山方向へ向かった。
この道標の右側には次の石製の道標も建っていた。「左 岩屋道 二丁」
分岐を右へ進みしばらく進むと視界が開ける場所があった。
ズームでパチリ。
さらに進むと
足元に桜の花を発見! 山桜か? どこから・・・
見上げると
「あった、あった」 あそこから舞い落ちて来たのだろう。
続いて、左手から私の目に訴えかけるものがあった。
太陽の光に照らされた石柱。そこには「從是西南禁殺(生)」と刻されている。
さらに先へ行くとこの様な石板や
このような石柱が山道(参道)沿いに置かれている。
この場所を過ぎると、その先には旧国束寺跡が広がっている。
参道脇には立派な石垣があり、
見上げてパチリ。
旧国束寺跡の中央にある広場には、テーブルと椅子が置かれ、その脇には掲示板等がある。
こちらは観音堂跡、
観音堂跡の正面には次の祠がまつられている。
そして、こちらが掲示板、
ここに掲示されているものは國束寺で頂ける由緒書き。(詳細は國束寺の記事を参照。)
こちらは旧国束寺跡の建物の配置図。
そして掲示板の隣では、絵馬を授与していただける。
旧国束寺跡を後にすると度会郡度会町平生に移設された國束寺へと向かった。
【 20130413 の記録 】
- アスピア玉城~弘法石~(山コース)~旧国束寺跡
- 国束寺跡~國束寺(往復)
→ 涌福智山 國束寺(度会郡度会町平生) - 国束寺跡~国束山ほか~(谷コース)~アスピア玉城
- 円通山 石佛庵、順礼道引観世音(度会郡玉城町原)
- 村山龍平記念館 開館三十周年記念特別展