花の窟神社

2011年05月15日(日) 花の窟神社 (車、徒歩)

今日は丸山千枚田の「田植え体験」に参加するため、熊野市紀和町板屋を目指した。予想よりも30分以上は早く到着できそうだったので、以前から興味を持っていた花の窟神社へ立ち寄った。

国道42号線(熊野街道)の花の窟神社交差点を右折すると花の窟神社が。

花の窟への道標

花の窟への道標

国道42号線 花の窟神社交差点

国道42号線 花の窟神社交差点

 

交差点の角には太いコンクリート杭に縄がぐるぐると巻かれている。

花の窟神社

花の窟神社

 

こちらが花の窟神社だ。

花の窟神社

花の窟神社

社標の右側にはこの案内板がある。

花の窟神社

花の窟神社

花乃窟神社

祭神 伊弉冊尊(いざなみのみこと)、軻遇突智神(かぐつちのかみ)

例大祭 春祭 二月二日、秋祭 十月二日

神代の昔より花を供えて祭るので花乃窟と言う。窟の頂上よりかけ渡すお綱は神と人とをつなぎ神の恵を授けてくださるお綱なり。

平成九年五月二十三日

 

なお、鳥居の手前右手には、史蹟 花乃窟の標石がある。

史蹟 花乃窟の標石

史蹟 花乃窟の標石

鳥居の左側にはこの案内板がある。

花の窟神社

花の窟神社

国史跡 熊野参詣道伊勢路

花の窟

Hananoiwaya

この花の窟には社殿はなく、高さ約45mの巨巌そのものを御神体としている。自然崇拝の太古からの遺風を残すとともに、熊野の神様としてあがめられてきた。御神体の巨巌の直下に立つと身の引き締まる思いがする。

祭神は伊弉冊尊(いざなみのみこと)、軻遇突智神(かぐつちのかみ)である。毎年2月2日と10月2日には、祭神の主要神事である「お綱かけ神事」が行われる。お綱かけは、わら縄で編んだ110尋(約180m)の大綱に季節の花、扇を括(くく)り付け巌の上から引き延ばして松の大樹の梢に引き渡し、境内南隅の松の根元に結びつける。

日本書紀神代の巻一書に「いざなみのみこと、火神(ひのかみ)を生むときに、灼(や)かれて神(かむ)退去(さ)りましぬ、故(かれ)、紀伊国(きのくに)の熊野の有馬村に葬(はぶ)りまつる。土俗(くにひと)、此の神の魂(みたま)を祭るには、花の時には亦(また)花を以(も)て祭る、又鼓吹幡旗(つづみふえはた)を用(も)て、歌い舞ひて祭る。」と記されている。

「花の窟」の名を初めて世に紹介したのは、平安中期の有名な修行僧である増基法師である。その紀行文「いほぬし」には

・・・見れば、やがて岩屋の山なる中をうがちて、経(きょう)を籠(こ)め奉りたるなりけり。「これは弥勒仏(みろくぼとけ)の出給はん世に、取り出で奉らんとする経なり。天人常に降りて供養し奉る」といふ。げに見奉れば、この世に似たる所にあらず。・・・傍らに王子の岩屋といふあり。・・・

と花の窟を述べている。

People from all around honor this massive rock formation for its spiritual importance.

文化庁・三重県・熊野市

 

また、道路の反対側には、口有馬道標があり、

口有馬道標

口有馬道標

熊野市有形民俗文化財指定
口有馬道標

所有 管理 有馬町口有馬区
所在    有馬町口有馬
指定    昭和五四年四月一日

「右 くまのさん

志”ゆんれい  」

とあり 上際の一角
は缺落し、建立年月日の切符はなし。
花の窟の西の曲り角にあり 熊野三山西国巡禮はここから右へ曲って行くべしという指示。

右へ曲らず眺めのよい松林道を真っすぐにいくとゆくてに志原川が海に注ぎ、旅人は波のひきまをみては、?て渡ので 俗に「走り湊の難所」と称し、昔のこととて橋もなく渡し舟は上流の方にありましたが なかには渡し賃一文を始末せんとして 波打際の急流を渡河すべく波のひきまをみては川に入り、折りから寄せくる高波に足をさらわれ 哀れ海の藻屑と消え去った人多く 志原川西の平見の濱街道脇には 明治のはじめの頃一四基の殉難無縁墓碑が立ち並んでいたという。

ここ花の窟の曲り角に立つ道標は 安全道はここから右に折れて 有馬村本街道に廻るよう警告をしたもので 道しるべは あるべきところにあったものです。

熊野市教育委員会

 

さらにその奥に広がる花の窟パークの中には口有馬竜宮塔がある。

口有馬竜宮塔

口有馬竜宮塔

甦る神々の道 熊野古道

口有馬竜宮塔

口有馬の浜にあり、「安政七年庚申四月世話人網方中。村方中」との記録がある。熊野年代記によると、「安政六年(1859)己末八月井上村塩入凡そ百人ばかりの人数にて湊口を切る。俄(にわか)に流れ出で九人流死」と書かれています。このときは、口有馬、奥有馬方面からも加勢を得て井戸河口にて作業中、折りから打ち寄せる高波で九人が流死したのです。

海の神竜宮神の怒りを鎮め、以後再びこのような災難の無きようにと願い竜宮塔を建立したのです。

昔から七里御浜の各河口では土用の高波ともなると塩入りで稲田が冠水、稲に花のつく頃には不作に見まわれるため湊口の閉鎖を切り開いた。湊切りは命がけの難作業でした。

 

花の窟パークにはたくさんの花が植えられていた。花畑から花の窟神社を望むとこんな感じだ。

花の窟パーク

花の窟パーク

花の窟パーク

花の窟パーク

 

花の窟神社の鳥居まで戻り、鳥居をくぐると真っすぐな参道を進んだ。

花の窟神社

花の窟神社

花の窟神社

花の窟神社

左手に稲荷神社の鳥居を見ながらさらに先へ進むと、

花の窟神社

花の窟神社

前方には通り抜けできる参籠殿があり、その手前左側には手水舎と大きな石がある。

花の窟神社

花の窟神社

手水舎で心身を清めた後、

花の窟神社

花の窟神社

参籠殿の中を通り抜ける通路へと入った。

花の窟神社

花の窟神社

通路の途中で由緒書を頂き、

花の窟神社由緒書

花の窟神社由緒書

【参考】  花窟神社(はなのいわや)ホームページ

 

参籠殿を通り抜けると、前方には門の先には御神体である大きな岩(巨巌)が。首を後ろへ90°曲げないと見えないくらいの高さである。先の説明では45m。

花の窟神社

花の窟神社

巨巌の直下には伊弉冊尊(いざなみのみこと)が祭られ、対面するように軻遇突智神(かぐつちのかみ)が祭られている。

花の窟神社

花の窟神社

巨巌を横向きに見上げるとこんな感じ。現場で実際に見てみないとあの大きさは分からないだろう。

花の窟神社

花の窟神社

花の窟神社

花の窟神社

「お綱かけ神事」で掛けられた大縄が張られ、そこから「縄の幡」が垂れている。

花の窟神社

花の窟神社

花の窟神社

花の窟神社

少し離れるとこんな感じ。

花の窟神社

花の窟神社

 

ただ、全体感が分からなかったので、丸山千枚田の「田植え体験」を終えた帰路に再び立ち寄り、全体をパチリ。

花の窟神社

花の窟神社

パチリ。

花の窟神社

花の窟神社

『お綱かけ』の写真が貼り出されていたので、こちらもパチリ。

『お綱かけ』の写真

『お綱かけ』の写真

 

【 20110515の記録】

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です