2011年05月15日(日) 入鹿八幡宮 (徒歩)
丸山千枚田「田植え体験」を終え、千枚田からB&G紀和海洋センターまで歩いていると、入鹿小学校を過ぎて丁字路の左手に鳥居が見えた。
社標には入鹿八幡宮とある。思わず寄り道となった。
鳥居をくぐると
参道の左側にあるこの石塔が目についた。常夜灯の火を灯す部分が押しつぶされた。いや取り去られたような形状だ。
さらに参道を進むと鳥居の前、左手には
手水舎があり、
右手には由来を記した案内板がある。
入鹿八幡宮の由来
八幡宮とは、応神天皇を主神としその父、仲哀天皇と母、神功皇后の三柱を祀り、源氏の氏神として深く信仰された。入鹿八幡宮の勧請について、明治十五年に編纂した「紀伊の国南牟婁郡小栗須村地誌」に入鹿某が大分県宇佐より勧請し岡原山に祀ったと記している、
このあとは本殿内に収蔵されている延徳三年(1491)の棟札を最古とし、明治まで20枚残っていることにより考証される。
八幡宮は源氏の信仰があつく棟札に山本義家とか、入鹿村総領一族などの文言があることから源氏の一統山本氏が氏神である八幡宮を勧請し崇拝したのものと考えられる、なお現在、応神天皇以下10柱を祭神としているがこれは、明治三十九年の一村一柱令により丸山(丸山神社)、板屋(矢倉神社)、矢ノ川(矢倉神社)、大河内(大河内神社)、小川口(楠森神社)、木津呂(天石神社)、島津(池森神社)、湯ノ口(杉野神社)玉置(牛頭神社)の各神社を合祀したためである。
祭日は?月?日である。
入鹿八幡宮
紀和町教育委員会
鳥居をくぐると境内の正面には拝殿がある。
まずは参拝した。
正面は格子のガラス戸となっていて、ガラスには先ほど歩いてきた参道が映っている。
さらにカメラをガラスに近づけてパチリ。奥が本殿のようだ。拝殿と本殿はつながっている。
社名額は立派だ。
拝殿の右側から奥へと回り込むと本殿と拝殿が一体化しているのがよく分かる。
ここから境内を振り返ってパチリ。
鳥居をくぐると狛犬に挨拶された。(バイバイ)
手水舎の脇には石垣に沿って小路が続いていた。
私は参道を戻り、
寄り道を終了し、B&G紀和海洋センターへ向かった。
【 20110515の記録】
入鹿八幡宮についてです。
後醍醐天皇の頭痛の治療をしていた件。
北畠親房の臣下で、阿倍野の戦いの後、一行と共に八戸南部に向かう。
嵐に遭遇して、入鹿八幡宮の宮司であった中西ほか数名が八戸にたどり着いた。
その折に後醍醐天皇から八戸南部に送った赤と白の鎧と、そのほか託されたものを運んだのち、花巻の鏑八幡の宮司になり、およそ三十年後に没した。
云々…
という伝承が伝えられています。
細かなところはここでは割愛させてください。
中西さん
こんばんは、情報をお寄せいただきありがとうございます。
もしかして八戸へたどり着いた中西宮司の末裔の方でしょうか?
入鹿八幡宮には久しくお参りできていないので、再訪する機会を作りたいと思います。
また、伊勢神宮の式年遷宮を復興させた慶光院清順上人ゆかりの地でもありますし・・・
入鹿八幡宮司中西繁実の子孫です。後醍醐天皇の頭痛を治した後に和賀郡の鏑八幡の宮司となり、正平二十三年にその地で没したと伝えられています。
紀和町の中西氏の所で古い棟札を保存しています。記憶違いかも知れませんが長男繁菊が応安二年に没したと書かれていました。
中西さん
コメントありがとうございます。
以前にコメントしていただいた、中西さんでしょうか?
新たな情報をありがとうございました。
あれ以来、再訪を果たせていません。そのことを思い出させていただきました。
今度こそは再訪したいと思います。