2011年04月17日(日) 続・神社港歴史散策 (ジョギング)
以前、2010年11月13日(土)木造船みずきでの船参宮気分 に出発する前に 神社港歴史散策(赤レンガ塩倉ほか) にて神社港歴史散策ガイドマップに掲載されているの一部の施設等を見学した。いつかはすべてを回ってみようと思っていたが、やっと実現した。
今日はジョギングで神社港へ向かい、以前にもらったこのガイドマップを参考に順不同ですべてを回った。
まずは大湊方面から堤防沿いに神社へと入った。
ここが神社・海の駅の建物だ。
その前には神社港が広がる。
右手には勢田川に架かる一色大橋が見える。
和船みずきは既に出向していたが、船着場のあたりに1隻の小船を確認した。確かあの辺りは昔の渡し跡。木造ではないがあの船が渡し船に見えてきた。私の頭だけがタイムスリップしていた。
現実に戻って、歩き出した。
船着場から防潮堤の切れ目を出ると目の前に(2)-1清水次郎長寄贈の石灯籠が建っている。
樹木に隠れるようにひっそりとしている。
灯籠の足元には案内板がある。
次郎長寄贈の石灯籠と荒神山騒動
慶応二年(1866年)四月八日に起きた荒神山騒動で清水次郎長の子分四人が死に、吉良の仁吉も深手を負い、弔い合戦をなすべく480名の壮士を率い、千石船二隻で五月十九日、伊勢湾を横断して神社港に上陸、直ちに穴太徳の後ろ立てである古市の丹波屋伝兵衛に決選を挑んだが、彼に戦意なく白根要助を仲立ちに小俣の武蔵屋周五郎、稲木の文蔵、塩浜の吉五郎を介して和議手打ちとなり、荒神山一件に終止符を打った。立役者は白根要助であった。荒神山の事件後、白根要助が寄留していた正丸園には、その新築祝いに次郎長が感謝のしるしに贈ったといわれる石灯籠一基があった。
平成十九年七月、松阪市の所有者から返還を受けることになり、約三十年振りに神社港の地に里帰りをした。また、同時に次郎長は等身大の鹿の置物も寄贈したといわれるが、今はない。
また、灯籠の近くに「みなとまち館」があるので、そちらを訪れると入口の扉が開いていた。
入口には、(2)石の分銅(ふんどう)の案内板がある。
(2)石の分銅(ふんどう)
江戸時代から明治時代にかけて神社港には海産物・雑貨を扱う廻船(かいせん)問屋と問屋がたくさんあった。
茶・海産物問屋を営む荒島屋さんが当時使われた石分銅で、帆桁(ほげた)を棹秤(さおばかり)にして計量したものである。
廿四〆八百 兵庫干鰯(ほしか)商と刻まれている貴重な遺物である。
みなとまち館へ入ると一階の中央あたりのガラスケース内に展示されているのがこれだ。
確かに、「兵庫干鰯商」とある。 ところで何Kgくらいあるのだろうか?
疑問を抱えつつ、みなとまち館を出ようとしたところこのキャビネットが目に入った。
中を覗いてみると「船参宮」の文字が見えた。これは興味深い。
勝手に読むわけにはいかないので、先ほどの神社・海の駅へ戻り、これらの資料の閲覧の許可をお願いしたところ、「これらの資料は、建物を解体した個人の方から預かっているものなので公開していない。今後、神社の老人会で調査してもらうようにお願いしている。」とのことだった。そこで、「所有者の方に許可を得てもダメですか?」と問うたが要領を得なかったので諦めた。
いつになったらどこまでまとめられるのだろうか? もしかすると埋もれてしまうのではないかと危惧している。神社老人会の方、ぜひとも早期にまとめ、しかもその結果を公開してください。よろしくお願いします。
「もったいない。」との思いを抱えながら散策に戻った。
こちらは海岸から一歩奥へ入った通り、その先には御食神社がある。
この案内板は、(16)旧花街通り。
(16)旧花街通り
参宮道者や旅人、漁師をもてなす紅灯三絃(こうとうさんげん)の色町として江戸時代からこの港町は有名で、船の乗り降り客を相手に三味太鼓の音が裏通りまで鳴りひびいていたと言います。
伊勢音頭で賑やかに入港した参宮道者(さんぐうどうしゃ)は定宿につくと早速打ち揃って馬車や人力車、或いは歩いて両宮参拝をし、帰ったその夜は一年間の大漁、稔りお礼と家内安全、商売繁昌をお伊勢さんに祈念したとして日頃の苦労をいたわり、感謝の心から家族、身内そろっての大宴会が夜を徹して繰り広げられた。
この辺りが花街だったなんて面影はまったく見当たらない。
次は、(8)大蔵省 境界標と赤レンガ塩倉へ向かった。
先のガイドマップには次のように紹介されている。
この辺一帯には塩田がありました。明治38年に専売法が施行され、塩田は廃止。塩専売所ができ、赤レンガの塩倉は保管所でした。敷地の四隅にあった「大蔵省」と彫られた境界石表が1本だけ残っています。
現在、赤レンガ塩倉は個人の敷地内にあるため、自由に立ち入るわけにはいかない。前回の散策で住人の許可をいただき拝見したときの写真がこれだ。
【参考】 詳細は、神社港歴史散策(赤レンガ塩倉ほか)
そして、こちらがこのお宅の敷地の隅にある「大蔵(省)」と彫られた境界石表だ。
このお宅の近くには、(9)清雲院がある。
(9)東照山清雲院(とうちょうざんせいうんいん)(於奈津(なおつ)でら)
徳川家康の側室於奈津の方が家康公の没後、公の菩提を弔わんと、寛永7年の夏に山田吹上松原に建立した寺である。
寛文の大火で類焼し、尾上妙見町(おべみょうけんまち)に再建。再び焼失。明治6年再建されたが廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の厄(やく)にて廃寺された。
先々代住職大盛海順(おおもりかいじゅん)師の奔走の労報い大正4年、清雲院は中興(ちゅうこう)された。
家康公と於奈津の像が安置されている。
こちらだ。
再び、防潮堤へ戻るとこの辺には多数のポイントがある。
まずこちらは、(7)次郎長一家勢揃いの地
(7)次郎長一家 勢揃(せいぞろ)いの地
「次郎長、一世一代(いっせいいちだい)の喧嘩でござんす。」と言って、鈴与を始め清水中の回漕店、材木店、旦那衆を廻り、大船2隻を準備させ、駿河(するが)、遠江(とうみ)、三河(みかわ)の見方400人あまりと共に慶応2年5月19日夜半、清水港を出航。
同月21日神社の湾に入り宿をとった。
地元神社の白根要助達の仲介もあって、大喧嘩とならず、一件が落着。
要助らの要請もあって次郎長は、子分十数人を従えて勝利の宴席に臨み、喜んで帰ったと言われる
さらにその右手には、(6)渡し場跡(わたしばあと)および(5)道路元標(げんぴょう)の案内板がある
まず、右側には道路元標の案内板があり、その下には石製の元標そのものがある。
(5)道路元標(げんぴょう)
元渡船場詰所前に建てられた。役場所在地の町村から県庁を始め、各地の市町村までの距離を測量する原点で、道路里程標(りていひょう)とも言う。
白塗りの木柱に各地への里数が鮮明に記入されていた。
神社町道路元標 三重県 と彫られている。
こちらが道路元標の表面で「神社町道路元標」、
裏面には「三重県」と刻されている。
そして、その左側が(6)渡し場跡(わたしばあと)の案内板だ。
(6)渡し場跡(わたしばあと)
ここにあった渡し場は、対岸の一色町との唯一の交通機関で、天保時代から仲間で始め、後に船番所から渡船組合同盟となり昭和30年4月に市営、料金も無料となった。
通学途中の学生が、渡し舟から落ちて水に溺れる悲しい事故が発生。
一色町の人達は二度と不幸を起こすまいと現在の一色大橋架橋の動機となった。
防潮堤の切れ目、開かれた扉から港へ入るとこれだ。先ほど木造船みずきの船着場付近で見かけた小船が停泊して作業していたので、渡し場跡の位置関係を尋ねたところ丁寧に教えてくれた。
それによるとちょうどこの場所から対岸は写真の右端辺りへ向けて渡し船が行き来していたそうだ。
一色大橋が完成すると渡しは必要なくなった。
再び、神社・海の駅へ戻ってきた。ここにもポイントがあり、
防潮堤の海側に2枚の案内板がある。
(3)日本海軍連合艦隊乗員上陸の地、(4)廣池千九郎「人生の転機」の地
(3)は
(3)日本海軍連合艦隊(かんたい) 乗員上陸の地
昭和15年頃まで毎年、我が連合艦隊や練習艦隊は伊勢湾に集結し、乗員はボート(80人乗り)や内火艇(ないかてい)で神社港kら上陸、隊伍(たいご)を組んで伊勢神宮参拝に向かった。
戦艦陸奥(むつ)や長門(ながと)の半舷(はんげん)上陸では、四列縦隊の行進は船江町あたりまで続いた。
参拝は済めば水平さんはこの町で羽根を伸ばして楽しんでいった。
(4)は
(4)廣池千九郎「人生の転機」の地
皇學館大学で神道史を講じていた法学博士・廣池千九郎(1866ー1938)は、神道(自然の摂理)を探究するなか、対岸の今一色で全身不随の病人と対峙する。しかし自分の力ではどうにもならない。
廣池は病人が我欲を離れ美しい心となるように祈り、この地から舟で通い続ける。一年通う間に病人は手足が動き、やがて立てるまでになる。
驚いたのは廣池自身だった。人間の心の働きには自然の摂理に通じる力があると気づく人生の転機となった。大正15年、廣池は総合人間学モラロジー(道徳科学)を創建し。それに基づく学校教育・社会教育を昭和10年に千葉県柏市で始め、今日の麗澤大学と公益財団法人モラロジー研究所の基礎を築いた。
続いて先ほど旧花街通りの先に見えていた御食神社へ向かった。この神社は神宮の125社の一つなので私にとっても馴染みの深い神社だ。
鳥居をくぐり、
珍しい二重の御垣の脇を通ると社殿の正面に出る。
さらに進んで池の畔りからパチリ。
手水舎で心身を清めたら、ここでも盃状穴を確認した。
参拝を終え、反対側の鳥居をくぐるとここだ。こちらが正面の雰囲気だ。ここには(15)の案内板がある。
(15)御食(みけ)神社
外宮摂社であり、神社港の氏神です。寛文3年(1664)330年前に再興された。貞享元年(1684)310年前に氏神となった。
祭神は速秋津比子命(はやあきつひこのみこと)速秋津比売命(はやあきつひめのみこと)の二柱を祀る。
中世の竜神信仰に結びついて地元は「辰の宮さん」「辰神さん」と親しんでいる。
正月早々の辰の日に辰の井のお水を受ける信仰が残っている。火難水難を除くという初辰行事です。
御食神社の反対側の広場にもポイントがある。広場を奥へと進むと
(14)の案内板がありその右側に道標が建っている。
(14)さんぐう道標 90年振りの里帰り
三河(愛知)遠州(静岡)道者らが参宮の往き来に賑わった道は七曲八折だった。直線道路を計画。明治19年着工、78日間で竣工、700m短縮された。神社港の人々は之を記念して桧尻入口の神社港と大湊道の三叉路に道標を建立した。
伊勢市でも5本の指に入る立派な彫りと達筆の遺品である。
その広場の隅に祠とお稲荷さんがあったので、参拝した。
祠の御垣の中には左右に石が置かれていて、左側には「山神」と彫られているようだ。
ついのに今日の神社港めぐりも終盤だ。神社の街中を海から伊勢市街方面へと続く一本道へと入った。道なりにまっすぐだ。
通り過ぎてパチリ。割烹旅館か、この通りは初めて通るので新しい発見だ。
さらに進むと、建物の片隅に案内板がある。
これは(10)だ。
(10)侠客(きょうかく)白根要助(しらねようすけ)の別邸
ここは正丸の離れ。かつて荒神山の一件で古市の丹波屋伝兵衛(たんばやでんべい)という勢州切っての親分を頼って逃げ込んだ阿濃徳(あのうとく)を、吉良の仁吉の仇討とばかり清水一家が次郎長を先頭に清水港から船で乗り込んで来た。
正丸の白根要助、神社の増吉、塩浜の利吉の三親分が仲に入り、その御礼に次郎長が後に要助に贈った鹿の置物がこの庭に置いてあった。
(白根要助の墓は、神社港共同墓地に現存)
その先には左側に神社小学校の校庭が見える。
先のガイドマップによると、
(13)播磨浜塩田
現在の神社小学校の場所は播磨浜という入浜式の塩田の一部でした。
とある。この場所のどこかは塩田だったのだ。
さらに先へ進むと、これが神社港めぐりの最終ポイント。
(12)一本道の街道
町はずれの三軒屋(さんげんや)は人家も少なく、桜と松並木があり、夏になると行商人が荷を下ろして木陰で一休みしている風景が見られた。
日支事変、大東亜戦争中は赤だすきをかけた応召兵が奉公袋を片手に松原の手前で町の人達から歓呼の声で見送られた。
松原から続く先は一本道の街道で、人家もなく僅かに街道の中頃に「おすま小屋」「佐助茶屋」の二件の茶店が旅人の憩いの場になっていた。
以上で、神社港めぐりは終了。
【参考】 続・神社港歴史散策(その2) (20110712追加)
このあとはジョギングを続け、「八房の梅」の状況を確認するために、新開の臥龍梅に立ち寄った。
【20110417の記録】
- 続・神社港歴史散策
- 臥龍梅の「八房の梅」その後(伊勢市御薗町新開)
海の駅を管理させていただいている「再生グループ」です。記事の掲載ありがとうございます。遅ればせながら御礼を申し上げます。
海の駅かみやしろ「再生グループ」さん
コメントありがとうございます。
御食神社や神社港にはたびたびお邪魔するのでよろしくお願いします。また、和船みずきには再び乗船したいと思っています。
新しい企画や行事があれば教えてください。
最後にお願いですが、みなとまち館内のキャビネに保管されている資料の調査、公開の推進をよろしくお願いします。
では、また、