2012年07月15日(日) 栄通神社(伊勢市通町) (車、徒歩)
伊勢市通町にある栄通神社(浜郷神社)へは、一昨年の12月以来のお参りだ。昨年は通能が実施される日に都合がつかず、お参りの機会を逸していた。
採鹹準備中の御塩浜 の後、二見から戻る途中、久しぶりに栄通神社へ立ち寄った。
道路沿いの最も目立つ場所には「村社濱郷神社」と刻された社標が建つ。ただし、この神社は栄通神社である。
社標の右手にある細い路地を入ると
中央に鳥居が建っている。
その鳥居をくぐると右手には「山之神社」が祀られている。足元を注視すると丁寧に筋目がつけられている。
ここで、振り返っても同じように筋目がつけられている。栄通神社はいつお参りしてもこのように手入れが行き届き、気持ちが良くなる場所だ。氏子衆の思い入れの現れだろう。
そして、正面にはさらに鳥居が建っているが・・・。あっ、鳥居の左側、
以前はなかった『栄通神社』の社標が建っている。
以前、『栄通神社』の名前を確認できるものは本殿前の拝殿(社務所兼用か)壁面に掲げられた扁額のみだった。
新たなる社標は『栄通神社』を主張する強い意志の現れだろう。
そこで、『栄通神社』と『村社浜郷神社』の真相をさらに知りたいと思い、伊勢市史を調べてみた。
伊勢市史第8巻(民俗編)の第四章、六 伊勢市の神社整理の項によると
浜郷村の場合、黒瀬・神田久志本・田尻・通(とおり)各大字の村社・無格社は大字通の栄通神社へ合併の上、浜郷神社と称する許可を明治四十一年五月に受けたが、昭和五年に実施された「分祀」調査報告(『神社分祀調』。三重県神社庁蔵)では「合祀未了神社」として記録されている(表3参照)。また、通町の浜郷神社には同社の石製社号標がある一方で、「栄通神社」との社号が明示されており、合併により創建された神社とムラの氏神としての神社との意識区分が伝承されてきたことがうかがえる。
とある。また、表3によると
明治四十一年五月に許可された合祀対象の神社は、「橘社(黒瀬)、神田社(神田久志本)、久志本社(神田久志本)、牟山中臣神社(田尻)、阿竹神社(田尻)、秋葉社(通)、秋田社(神田久志本)、八幡社(黒瀬)
とあるが、戦後には神社復祀の動きが活発となり、
昭和22年3月10日、橘社、神田社、久志本社、牟山中臣神社、阿竹社、秋葉社、秋田社は境外末社として創設された。
とある。
明治41年に浜郷神社として合祀されたほとんどの神社は昭和22年に復祀され元の社名を取り戻したにもかかわらず、これらの神社を境外末社として創設した浜郷神社はその名前が現在にまで残ってしまった。その事実は三重県神社庁に登録されている神社名で確認できる。
【参照】 伊勢市の神社一覧 (三重県神社庁)
つまり、合祀元であった栄通神社のみが現在でも本来の社名を正式に使用できず、氏子である通町住民の思いがこの社標に込められているのではないだろうか? なんとも切ない話である。
「社名を『栄通神社』に変更することは難しいのだろうか?」 そんなことを考えてしまった。
拝殿にてお参りを済ませて背面を見ると、天王祭祭典の掲示があった。これは河崎天王祭典と同日だ。来年は栄通神社にお参りしてみたい。
再び、本殿に向かい、ふと視線を左へ向けると石垣の外側には社域に隣接する池が見えた。
この後、きれいにつけられた足元の筋目を踏みながら、山之神社にお参りした。感謝の気持ちだ。
栄通神社の拝殿から見えた池は通橋の先。こちらが神社に隣接する池だ。
池の上に伸びる木の枝では
鵜が羽を休めていた。
今は和やかな雰囲気だが、氏神様を祀る神社の名前を勝手に変えられてしまった氏子たちの思いはどんなんだっただろう。この悔しい思いは後世に伝えられているのだろう(か)。
いろいろと考えさせられるお参りとなった。
そして、私の中では、『浜郷神社』の名前は消え、『栄通神社』一本となった。