2012年08月11日(土) JR山田上口駅と『平清盛幕張松古蹟』の石碑 (ジョギング)
度会橋から 度会橋から自宅へ(桜、多数) を経由してJR参宮線 山田上口駅へ到着した。
以前にも何度か山田上口駅には立ち寄ったことがあるが今回はじっくりと見学した。
まずは、駅舎の正面からパチリ。
入口へ向かうと頭上には手書きっぽい文字の駅名板が掛けられている。ほんわかと温かみがある。
駅舎の出入口にある引き戸扉は開け放たれていて、出入り自由のサインのようだ。ちなみに扉の下には石の敷居がある。敷居の溝は何とも魅力的だ。
この敷居をまたいで駅舎内へ入ると右手をパチリ。今は無人駅だが、駅員がいた当時はこちらには待合用の椅子が並んでいたことだろう。多くの人が列車を待っている姿を想像してみる!
そしてこちらが左手、パチリ。こちらは切符売場だったのだろう。
駅舎からホームへ出ると
こちらが左手、宮川駅方向、
そして、右手は伊勢市駅方向、パチリ。
さらにホームから駅舎と駅前をパチリ。駅舎の先にはクスノキの並木の一部が見える。
駅舎を通り抜けて
出入口で扉をパチリ、
パチリ。歴史を感じさせる木製の扉だ。
駅舎を出てからもパチリ。
JR山田上口駅の駅前にはクスノキの並木が列ぶ中央分離帯があり、道路幅はとても広い。中央分離帯の端部、JR山田上口駅寄りには、次の『平清盛幕張松古蹟』の石碑が建てられている。
石碑の背面を確認するとそこには「世古善兵衛建之・・」とある。
ただし、建立年月日は不明。
また、最近立てられたのだろう。石碑の右隣には
『清盛堤ゆかりの碑』の説明板があった。
そこには、
平家ゆかりの地 伊勢志摩
清盛堤ゆかりの碑
この地域では水害が多くあったため、治承年間に清盛が命じて堅牢な堤を建造したと言い伝えられている。
後に宮川に大堤防ができた事で水害が起こらなくなり、次第に壊され田畑となっていったため、現在はその姿を見ることができない。
大間国生神社の後方に清盛幕張の松が大正末期頃まで残っていたといわれており、その跡に建てられた遺跡碑が現在ここへ移されている。
とある。
ちなみに、宇治山田市史の「清盛堤」の項には次のように記されている。
清盛堤
常磐町字大間廣なる大間國生社の後に其の遺跡がある。昔宮川の支流が當市の内外を流通して居た時分、水害が屡(しばしば)あつたので、治承年間平清盛が大命を奉じて堅牢な堤塘を築造したのだと傳へられて居る。一説には「治承の頃は平清盛の政柄を執つた時代なれば、神宮より清盛に頼り奏して堤の成りたる故の号であろう」〔伊斎舊蹟聞書〕〔神境語傳〕とも云って居る。後年宮川の大堤成りて支流も小溝となり、此の堤も不用となったので、漸次崩されて田畑と化した。近年まで其所に一大老松あつて七五三縄を張り小鳥居を建て置いたが数年前に枯死したのは惜しい事である。
(宇治山田市史 P.840 昭和4年1月20日発行)
以上で、『平清盛幕張松古蹟』の石碑と
JR山田上口駅を後にして
すぐ近くの「草奈伎神社、大間国生神社」へ向かった。
【 20120811の記録 】
- お地蔵さん(宮川右岸、御薗中学校付近)
- 宮川橋梁(近鉄山田線)
- さくら名所100選の地(宮川堤)
- 若宮八幡宮(伊勢市宮川1)
- JR山田上口駅と『平清盛幕張松古蹟』の石碑
- お伊勢さん125社 宮川めぐり(草奈伎神社ほか)