2012年08月25日(土) 企画展「災害と山田奉行」その3(山田奉行所記念館) (徒歩)
広報いせ 9月1日号に次の記事が掲載されていた。
【開催期間延長】 2012年10月09日加筆
10月31日(水)まで期間延長
詳細は 「広報いせ」平成24年10月15日号 の5ページ。
今週は特に予定が入っていなかったので、午前中に近所での散歩を兼ねて山田奉行所記念館を訪れた。
入口には、
「企画展 災害と山田奉行 安政東海地震について」の看板が立てられていた。
入館料は無料なので、門の受付で挨拶して敷地へ・・・
記念館の玄関を入り、常設の展示をさっと見学してから
御白州の前の部屋へ向かうと、その部屋が今回の企画展示場となっていた。
まず、その部屋の入口に置かれたパンフレットをいただいた。
後で、じっくりと読んで分かったことだが、
嘉永7年は11月27日に改元され、安政となった。そのため、以下の資料には嘉永7年11月4日に発生した地震が安政の東海地震と呼ばれている。
とのことだ。
まず、右手の壁に張られた絵図、左下には「御普請所勢州大湊波除堤破損絵図」と書かれている。安政2年のものだ。
ここで私が気になったのは、「志宝屋社」と「忘井社」の位置だ。
絶対的な位置については不明だが、まず志宝屋社(志宝屋神社)については大湊全体との相対位置は現状と変わっていないようだ。また、忘井社が水饗社であると考えるとこちらも相対位置は変わらないようだ。
すると、水饗社は安政2年には今の「忘れ井」の場所に祀られていたのだろう。(ひとりで納得)
【参考】
よそ道から思考が戻ってくると展示の見学を再開、こちらは先ほどの絵図にも関連するが大湊の波除堤(なみよけつつみ)整備の経緯が記されている。
さらに、進むと古文書「山中文書」から安政東海地震の様子が紹介されていた。
被害の場所と大湊の地図が対応付けられていたので、大湊に足繁く通った私にとってはとても臨場感があった。
ただ、(2)の場所は知らなかったので、次回改めて探してみようと思った。
さらには、神社港の被害状況を 「山口三平翁見聞録」による文章と
この見聞記をもとに辻村聡志さんが制作した数点のイラストが展示されていた。
こんな感じで並べられていた。
一例はこちら。
隣のテーブルには「伊勢湾周辺の被害状況」などの絵が展示されていた。
そして、御白州側のテーブルには「山田奉行所への被害状況報告など」として、
当時、内宮側の町である宇治の自治にあたっていた宇治会合からの報告がこちら、
他方、外宮側の町である山田の自治にあたっていた山田三方会合からの報告がこちらだ。山田三方会合の報告は師職(御師)の被害状況に始まり、
その後で中嶋町など町村の被害状況が記されていた。
また、今一色村の前には御塩殿も・・・
そして、最後が嘉永7年11月、山田三方から御奉行所 宛となっている。
100年前後で繰り返すとされる巨大地震、昭和19(1944)年の東南海地震(M7.9)から約70年、いつ大きな地震が発生しても不思議ではないのだろう。
【 20120825の記録 】
- 企画展「災害と山田奉行」その3(山田奉行所記念館)
- 企画展「海をえがく、表現する」、常設展示ほか(斎宮歴史博物館)
- 歴史ロマン広場 1/10史跡全体模型ほか (国史跡 斎宮跡)
→ 近鉄 赤い伊勢志摩ライナー(斎宮駅付近通過) - 向日葵(国道23号線大淀交差点近く)