2013年04月13日(土) 国束寺跡~國束寺(往復) (徒歩)
旧国束寺跡を後にすると度会郡度会町平生の國束寺へと向かった。
ここで、旧国束寺跡の「国」と國束寺の「國」は何故異なる?と疑問に思われるだろう。実は観光案内パンフレットやマップでは国束寺跡、国束寺ともに「国」が使用されているが、後で紹介するお寺の寺標および由緒書き(パンフレット)には「國束寺」と書かれている。特に現存するもので、明記されているのであれば、固有名詞はそれに従うこととし「國」を使用する。また、旧国束寺跡についてはその場所を示す通称として「国」を使用した。私自身、両方共「國」を使用すべきか悩んだが、結局は「國」と「国」を使い分けることにした。
前説が長くなってしまったので、早速本題へ。
【今日のコース】
アスピア玉城→弘法石→(国束山 山コース[尾根コース])→旧国束寺跡→國束寺[度会町平生]→旧国束寺跡→国束山→国束山谷コースへの分岐→鳴子山(往復)→国束山谷コースへの分岐→(国束山谷コース)→弘法石→アスピア玉城 (赤文字:本記事分)
旧国束寺跡を後にすると右側に石垣を見ながら進み次の場所へ出た。木の幹に白いビニールテープ。
これだ。これが非常に重要な道標となっていた。これから向かうのは「平生」。
念のため、「坂井」の矢印方向を偵察すると次の石柱が建っていた。
分岐へ戻り、「平生」方向へ進むと倒木にピンクのリボンが巻かれていた。この下をくぐり
道なりに山道(参道)を下った。ここからは下りのみだ。ただし往復するので帰りはひたすらの上りとなる。
分岐から歩き始めると地蔵丁石を発見。この下りは一丁毎に地蔵丁石が建てられていたので、地蔵を探しながらの歩みとなった。
【壱丁】
地蔵丁石の隣には「禁止殺生」石も置かれていた。
【二丁】
きれいに枝打ちされた杉の木立の間の尾根を進むと
左手に
【三丁】
【四丁】
【五丁】
【六丁】
この下りは落ち葉が多く、自然のクッションとなっていた。
【天狗松跡】
【七丁】
【八丁】
【九丁】
この手前に分岐があったが、直線方向は折れた木の枝等で塞がれていた。右へ曲がれと促すように・・・。そして、右へ曲がると木の幹にピンクのリボンと破損した矢印。多分「平生 国束寺」と書かれているのだろう。
十丁は見当たらず、
【十一丁】
十二丁も見当たらず、
【十三丁】
【十四丁】
道端に放置されたキャタピラ付きの機械。何に利用されていたのだろう?
【十五丁】
【南無阿弥陀佛の石柱ほか】
この後、大いに下ると木々の間から道路、ガードレールが見えた。本道から外れる細い道へ進むと
そこは工事中でまだ供用されていない道路だった。
ただし、登り口には次の札が下げられていた。
さて、ここからどのように國束寺へ向かうか? この道路は新設の「ふるさと農道」で手持ちの地図には載っていない。こうなると地図もコンパスも役立たずだ。そして、こんな時に威力を発揮するのがスマホのナビ機能。音声認識では「くづかじ」をうまく変換できなかったので、手入力で「国束寺」を指定したらすぐ近くにいることが分かった。
ナビに導かれるままに、水田へと続く道を下り、
次の小径を進むと
すでに水が張られた水田の脇へ出た。ナビの矢印と目標点はすぐ近くだ。
水田を背にしてさらに進むと左手に色鮮やかな芝桜が目に入った。ここが國束寺のようだ。
納骨地蔵尊が新造され、その周囲の整備が進められている様子だった。
この後、國束寺の正面へ向かい、國束寺へお参り、境内の散策を済ませた。
國束寺での所用を済ませると旧国束寺跡へ戻るため、先ほど下ってきた山道(参道)を登るために来た道を引き返した。納骨地蔵尊にお参りしてから
斜面を登ろうとすると鹿威しの音が聞こえたので、小川の流れを辿りパチリ。
先ほどの水田の脇を戻り、工事中の「ふるさと農道」へ戻った。
先ほどの近道の登り口から山道へ入り、地蔵丁石を目安のひたすら登った。
あまりにも登りを急いだためだろう。膝の上の筋肉が悲鳴を上げ始めた。しばしの休息と水、塩飴の補給で回復し、歩き始めた。途中でパチリ。
そして、下りはじめにくぐった倒木へと戻ってきた。
この辺も旧国束寺跡なのだろう。
足元には瓦片、どの建物のものだろう? いつのものだろう?
石垣を左手に見ながらさらに進み、
観音堂跡の前に置かれたテーブル、椅子セットへと向かった。
【 20130413 の記録 】
- アスピア玉城~弘法石~(山コース)~旧国束寺跡
- 国束寺跡~國束寺(往復)
→ 涌福智山 國束寺(度会郡度会町平生) - 国束寺跡~国束山ほか~(谷コース)~アスピア玉城
- 円通山 石佛庵、順礼道引観世音(度会郡玉城町原)
- 村山龍平記念館 開館三十周年記念特別展