2013年10月05日(土) 手向山八幡宮 (車、徒歩)
『公慶上人坐像』に導かれて奈良へ にて紹介したように転害会を拝観するために手向山八幡宮を訪れた。
東大寺の中門前から東へ進むと「手向山神社」の社標と朱色の鳥居が向かえてくれる。社標には「・・神社」の文字だ。
鳥居をくぐり緩やかな上り傾斜の参道を進むと石階が現れる。
石階を上ると左手に小さな社が祭られていて、その前には常夜燈がある。常夜燈の柱には南都八幡宮の文字があり、
火袋部には次の紙が張られていた。
前方には手向山八幡宮の建物が見えている。
さらに近づいてパチリ。
さらに進み、右手を見ると校倉造りの建物がある。これは手向山八幡宮宝庫だそうだ。
そしてその反対側へ目を転じるとそこにも校倉造りの建物がある。こちらは東大寺の法華堂経庫だ。
さらに、法華堂経庫の奥には法華堂(三月堂)が望める。
ここはまさに東大寺の境内だ。
左右への横道から参道の正面へと視線を戻した。石階を上り
手向山八幡宮にお参りした。
こちらの案内板によると
この手向山八幡宮は、奈良時代聖武天皇が大仏の造営をされたとき。これに協力のため七四九(天平感宝元)年に宇佐から八幡宮を迎え大仏殿の近く鏡池(八幡池)の東側に鎮座したのに始まる。そして以後東大寺を鎮護したのである。
鎌倉時代の一二五0(建長二)年に北条時頼によって現在地に遷座した。祭神は応神天皇、姫大神、仲哀天皇、神功皇后、仁徳天皇
祭礼は転害会(てがいえ)と呼ばれ十月五日に行われる。これは宇佐から遷宮のとき、東大寺転害門から入られたことに起因すると伝えられ、転害門をお旅所として神輿(みこし)がでる。
この外、お田植祭がある。節分の日に行われるが古い能楽の形式を残しているといわれる。・・・
とある。
拝殿の東側石階下には
次の(県指定文化財)神楽所があり、
その壁には、頼光による鬼退治の絵が残されている。
そして、その向かいには舞台を有する拝殿があり、その左隣には
菅公腰掛石が祭られている。
石階を戻り、拝殿および本殿側をパチリ。
拝殿の先、手水舎と北の門もパチリ。
こちらは転害会にて祭員が手水を受けた場所、井戸の隣だ。
井戸の前を通過して北側の門から境内を出る前に振りかえてパチリ。右手には社務所、左手には拝殿。
北側の門をくぐり
振り返ってパチリ。
この参道は20m程で、その先には「手向山八幡宮」の社標が立っている。
【 20131005 の記録 】