2011年04月16日(土) 近鉄 お伊勢参り 第三回 その1/3 近鉄桜井駅から玉列神社へ (車、電車、徒歩)
前回(第二回)に引き続き、近鉄 お伊勢参り ハイキング 第三回 仏教伝来之地碑から花の御寺・長谷寺へ(桜井駅~長谷寺駅)に参加した。今回は長谷寺に興味を持っていた【キタヰの妻】も同行することになった。
自分一人なら自宅から伊勢市駅まで歩いて行くのだが、今回は駅前にある駐車場を利用することにした。駐車場の話題は最後の記事で紹介することとし、まずはお伊勢参りへ。
近鉄桜井駅へ9時13分に到着するために、伊勢市駅7時34分の名古屋行(急行)に乗車し、伊勢中川駅で大阪上本町行き(急行)に乗り換えた。
予定通り桜井駅に到着すると続々と参加者が電車から降りてきた。特に大阪方面から来た電車からはかなりの人数だった。
今日の集合場所は大和川の河川敷にある金屋河川敷公園とのことで、駅前ではすでにコースマップが配られていた。そのため、駅前が混雑することもなく容易に多くの人数が捌かれていった。
これが第三回のコースマップだ。
まずは、駅前から金屋河川敷公園を目指した。
今回は【キタヰの妻】がコースマップを持ち、私がカメラマンとなった。
まずは駅前から北上した。
駅前にある「山の辺の道へ」の標石は前回のゴール後にこの町を徘徊した時に見かけたものだ。この標石の横を通り過ぎ、
さらに進むと鯉ヶ渕橋があり周囲にはまだ桜の花が残っていた。
しばらく歩くと、【キタヰの妻】が次のタイルがあることを教えてくれた。パチリ。これは歴史街道 山の辺の道(桜井市)のものだ。
いくつかの交差点を過ぎ、右手に桜井ショッピングセンター 「ヤマトー」が見える交差点を右折した。「ヤマトー」の前を通過し、
榛原・初瀬方面へ直進すると、
道幅が極端に狭くなった。道路を拡幅している途中なのだろう。この先には踏切があったが、車が対向するのも大変なくらい狭いため、私たちウォーカーは大変邪魔だっただろう。
踏切を越えてしばらくすると、この注意看板が。そうか長谷寺では今日から「ぼたんまつり」が開催されるのだ。桜の見頃が過ぎてしまったので、ぼたんに期待することにした。(ところが、その期待が・・・、後の記事で)
さらに進むと、右手にはオークワがありその先の交差点を左折した。(歴史街道 「山の辺の道」の矢印に従って左)
工場と住宅が混在する通りを進むと、
中和幹線が見えてくるので、その下をくぐると視界が開け、
金屋河川敷公園に到着した。
対岸では野球部員がトレーニング中だ。
右手の方を見るとすでに人が集まっていた。
その対岸には桜の木が何とか花を落とさずに堪えており、その下にも人が集まっていた。
桜井市が配布していたパンフレットを頂き、しばらくするとスピーカーからいつもの声が聞こえてきた。近鉄のおじさんだ。『定刻10時にならないと講師による解説は始まらないので、「仏教伝来之地碑」に興味がある人が先に見学してください・・・。』
先ほどの桜の木の下に碑があるようなので、【キタヰの妻】を残し一人で馬井手橋を渡って
仏教伝来之地碑へ向かった。
こちらが碑の案内板で、
次のように書かれている。
仏教伝来の地
ここ泊瀬(はつせ)川畔一帯は、磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)、磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)をはじめ最古の交易の市・海柘榴市(つばいち)などの史跡を残し、「しきしまの大和」と呼ばれる古代大和朝廷の中心地でありました。
そしてこの付近は、難波津から大和川を溯行してきた舟運の終着地で、大和朝廷と交渉を持つ国々の使節が発着する都の外港として重要な役割を果たしてきました。
「欽明天皇の十三年冬十月、百済の聖明王は西部姫氏達怒?斯致契等を遣して釈迦仏金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻を献る」と日本書紀に記された仏教伝来の百済の使節もこの港に上陸し、すぐ南方の磯城嶋金刺宮に向かったとされています。
この場所は、仏教が初めて日本に送られてきた記念すべき地であります。
また「推古天皇十六年、遣隋使小野妹子が隋使裴世清を伴って帰国し飛鳥の京に入るとき、飾り馬七十五頭を遣して海柘榴市の路上で額田部比羅夫に迎えさせた」と記されているのもこの地でありました。
私たちはこの地の歴史的由緒と、優れた日本文化を生み出す源流となった仏教伝来の文化史的意義を、広く永く後世にとどめるため、ここに顕彰碑を建立しました。
平成九年七月吉日
日本文化の源流桜井を展く会ここより東南約三百メートル(水道局前庭)に磯城嶋金刺宮趾があり、宮趾の碑(保田與重郎書)と仏教公傳の文学碑が建てられている。
これがその碑「佛教傳来之地 東大寺別當 平田定海 謹書」だ。
対岸を見ると、ハイキングの参加者が続々と集まって来た。
まだ時間があったので、碑の裏手へ回るとこの道標があった。
「左 いせ はせ」で天保十二年のものだ。
さらに山の辺の道の方へと歩いて行くとこの道標があり、右側に海柘榴市(つばいち)観音堂とあった。
右側にはこの道標があるが、海石榴市とあり、2文字目が「石」となっている。
細い路地を矢印に従って進むと100mほどでこの場所に到着した。
もう少しで10時になるので、金屋河川敷公園へ戻ると講師による説明が始まっていた。
思ったより長い解説の後、近鉄のあのおじさんが「今日のスタンプはゴールではなくコース上で押す」ことを強調していた。私たちは完歩する予定なので問題ないが・・・。
その後、ハイキングはスタートした。参加者が多いし、【キタヰの妻】を動向しているので、極力最後の方からゆったりと歩くことにした。
大和川の左岸を進むと、先ほどの説明に出てきた飾り馬が対岸に見えた。
拡大するとこれだ。
河川敷を歩く人、対岸を歩く人、様々だ。
しばらくすると大和川に堰があった。右手の方の水路へ水を引くためだろうか。
この堰のあたりで道なりに右方向へ向かうと「磯城嶋公園入口」の案内板があった。
ここを左折すると公園だ。
川沿いにはこの歌碑がある。
泊瀬川 速み早瀬を むすびあげて
あかずや妹と とひし公はも作者不詳
さらに奥へと進むと、
ここにも句碑がある。
しきしまの 大和の国は 言霊の
さきはふ国ぞ まさきくありこそ作者:柿本人麿
さらにその右には、左から順に
- 「仏教公傳の地」
- 「欽明天皇磯城嶋金刺宮趾」
- 「磯城邑傳稱地」
公園を後に道なりに進むと、
式嶋橋を渡り、
中和幹線の下へ来た。左手に歌碑らしいものが見えたので、私だけコースから離れて寄り道した。【キタヰの妻】は他のハイカーと一緒に正規ルートを進んでいった。
椿山の看板の奥に句碑があるが、作者名を読むことができなかった。誰の句だろうか?
また、その向かいには歌碑がある。
苦しくも 降り来る雨か 神の崎
狭野の渡りに 家もあらなくに作者: 長忌寸奥麿
寄り道をしていたら【キタヰの妻】からかなり遅れてしまった。先ほどの横断歩道のところから元のルートへ戻って急ぎ足で中和幹線の下を進むと
次の交差点で左折した。前方には広い空間が広がる。(ここを左折)
道路に従って歩くと、天理教長谷川分教会の前を右へ曲がる。
この後も道なりに進むとこの祠に出会う。
この石垣の先には玉列(たまつら)神社の看板が建っているがコース矢印はこの手前を左折し、細い路地を上って行った。
突き当たりを右折するとここだ。この左手は玉列神社だ。
鳥居まで来て振り返ると中和幹線の奥では桜が山をピンク色に染めていた。
【近鉄 お伊勢参り ハイキング 第三回 仏教伝来之地碑から花の御寺・長谷寺へ 20110416の記録】
- 近鉄 お伊勢参り 第三回 (近鉄桜井駅から玉列神社へ)
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- → 長谷山口坐神社
- → 與喜天満神社
- → 長谷寺(花の御寺)
- 長谷寺参道から近鉄 長谷寺駅へ
- 近鉄 伊勢市駅付近の500円/24時間 パーキング