2011年04月16日(土) 近鉄 お伊勢参り 第三回 その2/3 玉列神社から十二柱神社へ (車、電車、徒歩)
近鉄 お伊勢参り 第三回 その1/3 近鉄桜井駅から玉列神社へ で玉列神社(たまつらじんじゃ)に到着した。
鳥居から坂道を下りこの場所に。三輪明神(大神神社)摂社 玉列神社の案内がある。
その右手にはこの道標がある。
先ほど下った坂道を上り返し、鳥居の前へ戻ってきた。 この右手後方には立派なトイレがある。
石段を上がると左手には由緒書きがある。
大神神社摂社
玉列(たまつら)神社御由緒略記
御鎮座 桜井市慈恩寺
祭神 玉列王子神(たまつらおおじのかみ)
配祀 天照大御神
春日大御神
例祭 十月十二日由緒
御祭神玉列王子神は御本社三輪の大物主大神の御子神で延喜式(延長五年 西紀九二七)神名帳にも見える初瀬谷に於ける最古の神社であります
昔から玉椿大明神として地元氏子区民は勿論遠く京阪神東海地方に至るまで厚い信仰を集め特に金色のお砂は招福のしるしとして尊ばれております
鳥居をくぐり、
左手にある手水舎で心身を清めた。ここにも龍がいた。
石張りの参道の両側には多くの常夜灯が配置されるとともに椿が植えられている。
特に参道左手の奥には多種多数の椿が植えられ、「玉列のつらつら椿」として知られているそうだ。(残念ながらは写真なし)
拝殿への石階を上ると右手後方の境内では観光ボランティアによる説明が実施されていた。
まずは参拝し、拝殿から本殿をパチリ。
拝殿には多数の吊り灯籠がかけられており、これらはかなり錆びたものだった。
また、拝殿の右、石階側には素盞鳴神社遥拝所(立札がなければ分からない)があり、
その反対側、本殿側には、左から順に
- 火(かまど)の神様 愛宕神社
- 道と教えの神様 猿田彦神社
- 金の神様 金山彦神社
が祀られている。
石階とは別の経路で境内の奉納演芸場の近くまで下りてくるとこの吊り灯籠が見えた。印象的だったのでパチリ。
石階の下では観光ボランティアによる説明が繰り返されていた。
その説明で隣の阿弥陀堂が開帳されていると聞いたので、玉列神社の隣へ向かうとこのケヤキに衝撃を受けた。なんという生命力だろう。
ちなみに阿弥陀堂はこちら。
石段を下りてケヤキを見上げるとこんな感じだ。支えが無ければこのケヤキは倒れてしまう。
ケヤキの感動を胸に、次は春日神社を目指した。
玉列神社の前を左へ進み道なりに進むと右折でここ。さらにこの先を左折するとしばらく道なりだ。
左側には大きな屋敷の立派な石垣が続くが、それが切れるとこんな風景が広がっている。
しばらくまっすぐに進むと次の道標がある。春日神社には、近鉄ハイキングの赤い矢印シールの方向へと向かった。あの背の高い木が目印だ。
立派な土塀を右に巻くように、土塀に沿って歩くと
板塀となり、その先には社叢が見える。
左手に春日神社が現れた。
これは珍しいしめ縄だ。大きなしめ縄に小さなしめ縄がいくつも吊るされているような形状でかなり手が込んでいる。
ここで振り返るとこんな風景だ。パチリ。
その後、参道を進むと
境内の隅に人だかりができていた。
実はこの案内板に集まっていたのだ。
春日神社本殿
(県指定文化財)
三間社春日造で、身舎の側面は二間からなり、前面吹放とし、後面梁行に三口の板扉を設けて身舎としている。身舎の正面と両側面には縁を付け、背面両端柱に 脇障子を取付け、縁高欄を巡らしている。向拝には浜縁を設け、正面中央一間に、五級の木階と登り高欄を取付けている。屋根は檜皮葺である。
本殿は組物・虹梁など、細部の手法がすぐれた三間社春日造であり、棟木銘から慶長八年(1603)の建立であることが明らかで、貴重な建造物である。
桜井市教育委員会
左側から本殿をパチリ。
また、春日神社の左奥に祠が見えたので私は参拝のため近づいたが、他のハイカーは誰もこの祠には興味がないようだった。
鳥居をくぐり、奥の祠の前で参拝。
春日神社での参拝を終え、参道を戻ると境内の左手に出口があり、順路はこちらへとなっていた。ここから境内を出て左へ向かうと、この歌碑がある。
夕されば 小倉の山に 臥す鹿の
今度は鳴かず い寝にけらしも作者: 雄略天皇
道なりに進むと
順路を示す矢印は、朝倉小学校へと向かっていた。扉は開かれていたので遠慮なく進むと、「関係者以外立入禁止」の掲示があった。今回は特別に通れるのだろうか? それとも休日は利用できるのか? それは不明。
誰もいない校庭はただ広くて物悲しげだ。特に今日の空は鉛色の雲に覆われていたため、ことさらだ。
こちらが朝倉小学校の玄関だ。四階建ての立派な校舎だ。生徒は何人くらいいるのだろう?
反対側(多分、正門)を出ると右手には
この歌碑がある。
こもりくの 初瀬の山の
山の際に いざよふ雲は
妹にかもあらむ作者: 柿本人麿
ここを過ぎると右側に 国道165号線が見えてくる。
そしてこの道路は、押しボタン式の信号機がある交差点で国道と合流する。
交差点の脇にはコミュニティバスのバス停「黒崎」がある。
ここからはしばらく国道165号線を歩くことになる。
ほぞなく、左手にはこの風景が見えてくる。
ここは、白山神社だった。到着した時には社標等が見当たらず神社の名前が分からなかった。
まずは参拝した。
参拝後に拝殿の右手へ回ると、
本殿の前の鳥居には社名額がかかり、「白山社」と記されている。そしてここが白山神社であることが分かった。
本殿の装飾は華やかで、側板には絵が描かれている。
社殿から視線を外し、境内の周囲へ向けると、これは何だろう?
また、他には
雄略天皇泊瀬朝倉宮伝承地
桜井市黒崎の「天の森」が、朝倉宮の地であろうとの説は、『大和志』や『日本書紀通証』などで、述べられている。が立地的に見て、宮を営むのに適地ではな い。保田輿重郎氏は、この白山神社付近をその候補地とし、雄略天皇の歌で始まる『万葉集』の発祥の地として、神社境内に記念碑を建立したものである。
桜井市教育委員会
こちらは、
雄略天皇 御製
籠もよ美籠もちふ串もよ
美ふ串もちこの岳に菜摘ます
子 家告らせ名のらさね
そらみつ倭の國は おしなへて
吾こそをれ 敷きなへて
吾こそませ我をこそ背とは
告らめ家をも名をも
保田輿重郎 謹書
境内の見学を終え、国道沿いへ出てからこの碑をパチリ。「萬葉集發燿讚仰碑」
再び、国道165号線を歩き始めると反対車線の道路沿いにこの風景だ。形状は登り窯のようだが? 真実は? もう既に松が根を張っている。
さらに前進すると「長谷寺ぼたんまつり」の看板だ。
しばらくすると左手に「流地蔵」と刻された石柱が見えた。
この奥にはお堂がある。
この案内板には、
出雲の流れ地蔵
本尊は室町時代末の地蔵石仏。
(高さ1.4メートル、幅63センチ、仏身1.15メートル、花崗岩)
上半身だけを地上に出し、腰から下は地下に埋まっている風変わりな地蔵さんとして有名である。
文化八年(1811年)の大洪水で、初瀬川上(長谷寺の桜の馬場)から現在地まで流されてきたのを当時の出雲村の人たちが助けてまつった、と語り継がれている。
本かわらぶき宝形造りの立派な堂前に建つ石燈篭に、天保十一年(1840年)の年号が刻まれている。
桜井市出雲区
「出雲」の地名があり驚いたが、この地域にも「出雲」があるようだ。とはいえ、お地蔵さんが流されるほどの洪水は大洪水だ。
さらに国道165号線を進むと
Y字路が現れる。ここでは進路を左へ取り、今度は国道から離れることになった。
その先左手にある家の軒には、
おいせまいり札が吊り下げられていた。
ここからすぐ先に十二柱神社がある。
【近鉄 お伊勢参り ハイキング 第三回 仏教伝来之地碑から花の御寺・長谷寺へ 20110416の記録】
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- 近鉄 伊勢市駅付近の500円/24時間 パーキング