2011年04月16日(土) 長谷山口坐神社 (車、電車、徒歩)
近鉄 お伊勢参り 第三回 その3/3 十二柱神社から長谷寺へ で長谷寺への参道を歩いていると右側のこの路地の先に小さく鳥居が見えた。私は誘われるように足が向かった。同行していた【キタヰの妻】は長谷寺へ向けて先行したので、私は「後から追いかける」と言い残して寄り道を楽しんだ。
路地を進むと
朱色の太鼓橋があり、その右手には「延喜式内社 長谷山口座神社」の社標がある。
さらにその右側には常夜燈があるが、ここに刻されている文字が珍しい。今まで伊勢へ向かう街道沿いの常夜燈には「太神宮」と刻されていた。なんと、この常夜燈には「豊受太神宮」とある。
「豊受太神宮」は外宮だ。いままでと異なる点にも興味を覚え、急ぎ足ながらじっくり見学することにした。
太鼓橋を渡り、下流側をパチリ。隣にも朱色の橋が見えていた。
橋を渡ると左手には「元伊勢 磯城伊豆加志(嚴橿)本宮伝承地域の碑」が建っている。
その隣にはこの案内板が。
長谷(はせ)山口神社由緒(ゆいしょ)記
当神社は長谷山の鎭(しづめ)の神として太古より大山祗(おおやまつみ)の神を祭神としている。第十一代垂仁天皇の御代倭(やまと)姫の命を御杖として、この地域の「磯城嚴橿の本(しきいつかしのもと)」に約八ヶ年、天照大神をおまつりになった時、随神としてこの地に天手力雄(あまのたぢからを)の神、北の山の中腹に豊(とよ)秋津姫の神をまつる二社を鎭座せられた。
長谷寺縁起やその他の古文によるとこの地方は三神(みかみ)の里 川は神河、この附近の淵(ふち)は神河浦と書かれている。第四十五代聖武天皇の天平二年(西暦730年)大和大税帳には、長谷山口神社の名が見られる延喜式内社(えんぎしきないしゃ)である。近世になり明治四十二年初瀬平田(ひらた)にあった豊受神社の豊受姫の神を合祀されている。
当神社は由緒は深く五穀豊穣(ごこくほうじょう)商売繁昌の神としてうやまはれ、国や家々の安泰と繁栄を祈願し氏子里人の守り神として、あまねく人々の敬い奉るところである。
これで常夜燈の謎の一部が解けたような気がした。
鳥居をくぐり、
石段を上ると、水神が祭られている。この左手に石段が続いている。
駆け上がると目の前には建物が見えてきた。
ここは裏口から入るような雰囲気だ。珍しい。最後の石段を上ると
視界が開けた。奥の手水舎で心身を清めた後、しばらく散策した。
ここでは狛犬にしめ縄が掛けられていた。
拝殿の横から本殿が覗けるが拝殿の垣の上部には有刺鉄線が張られていた。誰かにいたずらされたのだろう。
拝殿の右後方、先ほど石段を登ってきたとき目の前に現れた社務所の背面にも由緒記が掲げられている。
自宅に帰ってからこの由緒書を読み直すと、
本殿東の山上には磐境(いわさか)がありここより東約四百米の南西山麓に横穴式古墳が残っている。
と書かれていた。(訪問時にこのことに気付いていたら、磐境や古墳へ向かっていただろう・・)
やっとお参りとなった。
参拝を済ませてから見上げると、次の札が掛かっていた。
祭神 大山祗神、天手力雄神、豊受姫神
祭礼
風鎭祭 八月三十一日
霜月祭 十二月八日・九日
宮司 加藤 勝
橋の袂にある社標には「長谷山口座神社」とあるが、拝殿には「長谷山口神社」とある。
拝殿の屋根の瓦にも注目を。
じっくりと見学したのち急な階段を駆け下り、鳥居を戻り、
太鼓橋を渡って
長谷寺への参道へと戻った。
この後は、【キタヰの妻】に追いつくため急ぎ足に。
【近鉄 お伊勢参り ハイキング 第三回 仏教伝来之地碑から花の御寺・長谷寺へ 20110416の記録】
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