2011年07月09日(土) 野登瀬B遺跡現地説明会(津市美杉町下多気) (車)
三重県からのメールで野登瀬(のとせ)B遺跡現地説明会が本日開催されることを知り、10時からの説明会には余裕を持って7時半過ぎに自宅を出た。車のナビに誘導されるまま初めての峠道(松阪の森林公園を通過し、堀坂峠、清水峠を越え)を恐る恐る走ったところ、「埋蔵文化財センター」の目立つ幟が目に入った。
車のナビは右折を指示しているが、案内板をよく見ると左折となっていた。ここは案内板に従い左折した。
ここからも峠越えとなったが、今までの道路とは違い中央線がある片側1車線の整備された道路だった。ワインディングを下りきると交差点の左手にまたまた「埋蔵文化財センター」を発見した。ここには担当者がいて、駐車場を案内してくれた。駐車スペースに車を駐めると目の前が発掘現場だった。
幟の後ろには、野登瀬バス停があった。
まずはこの先右手に立っている赤いテントで受付を済ませた。(と言っても資料を受け取ったのみ)
資料は、次の通り。
- 野登瀬B遺跡現地説明会資料
- 多気城下絵図の世界
- 北畠氏館跡ガイド
定刻になると説明会が開始された。挨拶と概要説明が手短に終了すると、
早速、発掘現場での説明へと移行した。
見学者は現場の周囲に配置すると、説明員の谷口さんが説明してくれた。
最初は遺跡の発掘方法について、
黒い土を掘り進める地山(黄色い土)が現れるので、丁寧に掘り進めると穴などの複雑な形状が現れる。
また、この現場には掘立式(穴に木を立てるだけの建物)の掘立柱建物があり、その周囲にはゴミ穴と思われる円形土坑が点在している。
こちらも円形土坑で、発掘の様子が分かるように黒い土が残されていた。(説明会のため?) 円形土坑は、近隣の多気(たげ)や竹原地区でも発見されている。
掘立柱建物と円形土坑の組み合わせで屋敷と考えられ、ここには屋敷地1と屋敷地2の2ヶ所が存在している。(野登瀬B遺跡現地説明会資料3of4)
遺跡の一部に石が残されているが、この現場の石は地山にあるため、当時のものであると思われるそうだ。
また、複数の穴が結合したようなものの解釈としては、最初に掘られた穴が何らかの理由で埋められた後、その穴を意識せずに重なる位置に別の穴が掘られた。と考えられる。
ここからは見学者も発掘現場へ入り、歩き回ることができた。(ただし、穴の縁を踏まないように注意があった。)
まず目には入ったのはこのカエル。
こちらは掘立柱建物の柱穴。手前の穴には根石(ねいし:柱が沈み込むのを防ぐための石)を確認できた。
こちらの掘立柱建物2付近には、少し色の変わった土がある。朱色(赤)の点は焼け土で、黒色は炭だ。また、鉄から不純物を取り除いた塊である鉄滓(てつさい)も発見されており、この地で鍛冶作業がなされていたと判断できる。そうだ。
しばらく見学していたら、こんな風景に遭遇。遺跡が崩れていた。すでに調査は終わっているのだろうが、見学者のモラルが問われるだろう。今日は小さな子供のいたので・・・
また、掘り出した土が現場の隣に山積みにされていたが、土の種類が異なって見えた。荒い塊の土の上に少し色が異なるふるわれたような土が。説明員の方に聞いたところ、ここではふるいは使っていないとのこと、出土の状況によってはふるいを使うこともあるそうだが、ここではスコップ等で荒く削った後、地層の境界を丁寧に削り取っただけ。ただし、この丁寧に削り取られた土が雨にあたると、このようにふるいにかけられたようになる。そうだ。
屋敷地2の奥(北東)の左側に長方形の深い穴があったので、これも説明員に聞いてみた。
こちらは遺跡とは関係はなく、現場の排水を配慮して、もっとも低いこの場所に集めた水を水中ポンプで吐き出すための穴だそうだ。また、この穴には排水以外にも、さらにこの下に遺跡が存在しないかを確認するための試堀の役割もあるそうだ。
しばらく、自分で勝手にタイムスリップを楽しんでから
現場を後にした。
受付のテント下では、すでに出土品の説明が始まっていた。
この遺跡は室町時代のものと考えられていたが、縄文時代後期の土器片や石器(下の画像の上が剥片(石器の削りかす)、下が石錐)が見つかり、縄文時代から人が住んでいたことが確認された。そうだ。
ちなみに石器はサヌカイト製であり、この付近では奈良県の二上山で産出されるので、この地と交流があったと推測できる。一つの出土品がいろいろなことを教えてくれる。おもしろい。
これらの石器片の中には、古墳時代の土器、中国から輸入され博多や大阪等を経由したと思われる青磁器、さらには伊勢湾経由で運ばれた常滑焼、信楽焼、瀬戸焼の天目茶碗、明和町付近で焼かれたと思われる土師器などさまざまなものがあり、様々な時代での幅広い交流が伺える。
先の鍛冶作業の証として、鏨(たがね)や釘なども出土されている。また900年ほど前の中国銭もあり、日本では室町時代に使用されていたと思われる。とのこと。
近くを流れる八手俣川(やてまたがわ)の上流にある多気(たげ)地区は、室町戦国時代に北畠氏(伊勢国司、戦国大名)の本拠地となったところで、下流の下之川地区は鎌倉時代から室町文化にかけて宗教文化が花開いた地だそうだ。このような地理的な条件においてそれらの中央に位置する野登瀬は北畠氏の防衛拠点であったかもしれない。など、道路改良工事のために実施された今回の狭い現場での調査では、かなり成果があがったようだった。
以上で説明会は終了したが、遠くに見えた祠と八手俣川のことが頭から離れず、まずは野登瀬公民館の前を通って
宮戸橋(八手俣川)へ向かった。
橋の手前を左へ向かうと川原へ下りられたので、まず、宮戸橋をパチリ。
続いて、八手俣川をパチリ。
ここで早い食事(いつものおにぎり3つ)にしようと思って周囲を探ると、この置き石が気になった。どうも自然に集まったのではなく、誰かが配置したような感じだった。
ふと、視線をあげると長~~い竹が立てられていた。
その先には、
垂紙が付けれている?
食事を終えてから宮戸橋を渡り、先にある祠へお参りした。
野登瀬B遺跡現地説明会場へ戻ってくると受付のテントは片付けられていた。(お疲れ様です。)
これで野登瀬B遺跡現地説明会は終了したが、この後、北畠神社を目指した。
【 20110709の記録 】
- 伊勢寺神社
- 伊勢寺神社から野登瀬まで
- 野登瀬B遺跡現地説明会(津市美杉町下多気)
- 北畠神社
- 伊勢本街道
- 松井孫右衛門人柱堤(浅間堤)