2012年08月15日(水) 大和三山回遊、その1(橿原神宮前駅~畝傍山~畝傍御陵前駅) (電車、徒歩)
天候不順の夏季休暇、やっと落ち着いたのはすでに五日目の本日、予定のひとつであった「大和三山回遊」のため、奈良を目指した。
利用したマップは、いつもお世話になっている近鉄のてくてくまっぷ-奈良19「大和三山回遊コース」だ。今回はほぼマップに忠実に歩いたので、マップとの対応は一目瞭然。
【参考】
近鉄 伊勢市駅を6時35分発の名古屋行き急行に乗り、伊勢中川駅、大和八木駅で乗り換えて橿原神宮前駅へ到着したのが8時半前。今日は夜の伊勢で所用があるため、できる限り寄り道はせず、早足で回ると決め出発。
近鉄 橿原神宮前駅の中央改札口を出てパチリ。
駅前の広場で振り返り、駅舎をパチリ。大きな屋根が印象的だ。
駅前にまっすぐに続く
イチョウ並木を進むと
右手の橿原観光ホテルを過ぎる。
その先は橿原神宮の表参道へ続くがその前には有料駐車場が広がっている。
左側の歩道を進むと ◆橿原神宮境内案内図◆が準備されているので、ここで概要を把握してから
橿原神宮にお参りした。橿原神宮は見どころが多いため、記録を分割。
【参考】 橿原神宮
表参道を進み、橿原神宮境内の各所を巡って北新門を出た。振り返ってパチリ。
北参道を進むとその途中に、左へ向かう小路がある。ここが、
畝傍山登山口だ。この標識がなければ「???」な場所だ。この一枚の矢印案内板がありがたい!
まだ道幅の広い山道を進むと
石段の先に
鳥居が見えた。ここが、東大谷日女命神社(ひがしおおたにひめみことじんじゃ:無格社)だ。
また、上の写真の右手に建てられた石碑の説明書きが建っていたので読んでみると概要は
1764年(明和元)年、大風により畝傍山の大木が約千本も倒され、稲作にも影響があった。しかしながら在郷の大目付は江戸の殿様に対して稲作には影響がなかったと報告し、領民らの減税の願いは無視されてしまった。また、翌年の台風被害でも大目付の偽りの報告により他領と比べても援助が少なく、領民の不満は大きく膨らんだ。耐えきれなくなった領民は代表を選出して江戸へ訴え出たが、希望する程の減免は叶わなかった。
1768年(明和5)年の台風により大凶作となると、大谷村の庄屋半兵衛、畝傍村の惣治郎を首謀者として領内の農民が集結し陣屋へ押し寄せた。その強訴により年貢不納の文書(免許状)を勝ち取ったが、その後に江戸から送り込まれた役人の厳しい取調べにより、首謀者であった畝傍村の惣治郎は死刑、強訴した村方には村高百石につき四石の科料(罰金)が命じられた。
村人たちは惣治郎の功績を称え、東大谷日女命神社の前に顕彰碑を建てた。
とのこと。
見過ごしがちな石碑であるが、一枚の説明板がることにより背景が理解でき、当時の状況が想像できる。が、現代に生きる我々にとっては自然と御上に痛めつけられた農民の生活は想像を絶するものだろう。
頭の中での寄り道を終えると鳥居をくぐった。
鳥居の先右手には、庚申堂とその右手には 「太神宮」と刻された常夜燈が建っている。
階段の参道を進むと
石階の先に拝殿が・・・
石階を上がりきると左手には趣きがある手水石が置かれている。
拝殿へ向かい
お参りした。
参道から山道へ戻り先へ進むと、左手に「大和三山 畝傍山国有林案内図」と「名勝 大和三山 畝傍山」の案内板および鉄柱が建っている。
ここを通りすぎるとその先は山道らしくなり、
10分足らずで次の分岐に到着した。「頂上」と「畝火山口神社」の矢印が微妙な角度を成しているが、
畝傍山の頂上を目指すために右の奥の山道へ向かった。ただ、稜線へ向かう急な登りの踏み跡があり直登ルートと思われたが、 今回は確実性を重視し、水平道を進んだ。
なだらかの上りとなり、この階段で折り返すと
先ほどの分岐から10分足らずでこの分岐へ到着した。
ここには、畝傍山国有林の説明板があり、
この背面、いや案内板から見れば前面に畝傍山の山頂が見える。こちらだ。
その一画には畝火山口神社社殿跡の石碑が建っている。
この神社も様々な経緯で社殿が移動させられている。詳細は、後の畝火山口神社の由緒を参考に。
三角点へ近づくと、その近くには誰かが取り付けた「畝傍山 199m」の山頂標があった。
畝傍山山頂の周囲には樹木が多く視界が良いとは言えないし、空にはガスが浮いていたためさらに視界が悪くなっていたが、耳成山を見ることはできた。
ズーム。
大和三山のひとつをまずはクリア。ただし、まだ本日の旅程の6分の1だ。
下りの時間を短縮するため、最初の分岐で見つけた直登ルートを駆け下りることにした。先ほど上りの途中で右方向へ伸びる踏み跡を発見しておいたので迷うことなく、そちらへ向かった。先行者は見当たらないが、しっかりした踏み具合と方向は申し分ない。
特に不安もなく駆け下りると、途中で急な斜面となり、
足裏に注意を払って滑らないように急いだ。その結果、下りは5分程で到着した。 元の山道へたどり着いてから振り返ってパチリ。(左が往路、正面が復路)
続いて、畝火山口神社へ向かうため山頂への参道の左下側のルートへ向かった。
右上には山頂へ向かう人の姿が見える。
整備された階段を駆け下りると
畝火山口神社側の登山口へでる。
ここはすでに畝火山口神社の参道でもあり、次の看板が建っていた。
安産の守神、命名改名神前結婚の文字が赤い。また、今日は15日なので 「誕生奉告祭」の日だ。
赤い鳥居の前には
由緒書きが掲示されていた。
この掲示書きによると、先ほど畝傍山の山頂で見た畝火山口神社社殿跡の石碑の理由が明らかになる。この御由緒から社殿の場所の移転情報を拾い出すと
- 文安3(1446)年「五郡神社誌」には畝傍山口神社、在久米郷畝傍山西山尾とあり、当時は西麓にあったとされている。
- 天正3(1575)年の畝傍山古図では山頂に社殿が描かれている。口碑に当時の豪族越智氏が貝吹山に築城の際真北に神社を見下すことを恐れて山頂に遷座したとあるのと符合する。
- 現在の社殿は昭和15年皇紀二千六百年祭で橿原神宮、神武天皇陵を見下し神威をけがすということで当局の命により山頂から下山遷座した。
とある。
社柱に刻された「畝」は異体字だ。
赤い鳥居をくぐり、参道を進むと
畝傍大明神の常夜燈の先に手水舎がある。手水を受けようとしたが虫の死骸が浮いていたので、ここは形だけの手水を受け、心身を清めた。
社務所を左手に見ながら先へ進むと
石段の上に拝殿が・・・
まずはお参り。
おっ、賽銭箱に「揚羽蝶」の神紋。
揚羽蝶は寺紋として見たことはあるが、神紋は初めてだ。
【参考】
また、拝殿には椅子が並べられていた。今日は「誕生奉告祭」、神事はこれからか?
本殿の御垣の前には酒樽、銘柄は「金鼓」。
【参考】 清酒 金鼓/大倉醸造元 株式会社大倉本家 (公式ホームページ)
金鼓は二上山の山麓でつくられている。
拝殿の左手には、駆け出しそうな馬が
「揚羽蝶」を付けている。
拝殿を巻いて正面へ戻ると
拝殿の右手へ向かった。するとこの光景だ。
説明板には
- お子さまに恵まれないお方は、つぎのようにしてください。
男子は向かって左側
女子は向かって右側
を
お子さまを授かるようにと三回さすってお願いをして下さい。
とある。説明不要の形状だ。ご希望の方はしっかりさすっておこう。
確かに「祈 安産・・」の幟が立っている。以上で畝火山口神社を後にした。
鳥居の先の坂道を下り、振り向いてパチリ。
この場所から前方左をパチリ。
マップに従い、右、左へ向かうとその先には
常夜燈が建っている。
常夜燈を通り過ぎて、すぐを右へ入ると
文字通り、道なりに左右へを繰り返し
マップ(3742)ポイントへ到着した。左の壁には「ひふ外用薬 雪の元」の看板があった。
そういえばこの看板は畝火山口神社の境内でも見かけた。
看板を背に前方へ進むと右手には農業試験場があるはずだった。が、
入口には「立入禁止 奈良県」とある。どうも閉鎖中のようだった。
帰宅後に調べてみるとこの施設(旧農業試験場果樹試験地)は、平成24年度の奈良県低・未利用資産一覧表に掲載されていた。用途廃止資産として。
旧農業試験場果樹試験地の脇を進むと、左手には新しい道路が整備されていた。
さらに進むと右手には慈明寺の寺標が建っていた。
右手の坂道を上ると「天神社」の扁額が掛かった鳥居が建っている。近くに社叢は見当たらないので「天神社」へお参りすることは諦めて、先を急ぐことにした。
元のコースへ戻る前に旧農業試験場果樹試験地方向をパチリ。
これだけの資産が遊んでいるとはもったいない。
マップに従ってさらに進むと高取川に架かる慈明寺橋へたどり着いた。
右手の手前の道を進み、
振り返って慈明寺橋をパチリ。
さらに、北側をパチリ。
橋を背にすると、左手に田んぼを見ながら進んだ。稲はまだ青く、稲刈りまではかなり時間がかかりそうだった。
黙々と歩いていると右方向、青田の先に御堂のような建物が見えた。
ここは橿原市山本町。
ここを右折するとその先は、これだ。
石柱には「山本大師堂」とある。
御堂へ向かい、まずはお参りした。
前庭の花とともにパチリ。
再び、御堂へ向かい名前を確認すると、
木札には「真言宗 山本山大師堂」、ただし、先ほどの石柱には「山本大師堂」。また、この木札は二重になっている。この木札の下にも木札ある。もしかしてその札には「山本大師堂」と書かれていたりして?などと想像した。ここでは「山本山大師堂」の名前を使用した。
なお、この大師堂の近くには多くの祠が建ち、お稲荷さんや龍天大神も祀られている。
また、帰宅後に由緒書きを読んだところ、大師堂の隣にある井戸は畝傍山の周辺にある弘法大師の「七ツ井戸」の一つで現在も利用されている唯一の井戸だそうだ。現地で井戸の存在を確認はしたが、井戸をメインにした写真は撮っていなかった。(残念)
山本山大師堂を後にすると、神武天皇畝傍山東北陵を目指した。
突き当たりの電柱を右折して
この路地を進むと
左手にこの「みち?」が見えたが、ここは正解じゃないかと思いつつも疑ってしまい直進した。
すると左手に池。これは行き過ぎた。先ほどの狭~い道が正解だ。
折り返して、ここを右折(順当に来れば、向こうから左折)した。
右側に池があるとは想像できない道を進むと、
途中で地道に変わり林の中へ進んだ。
しばらくすると左手に堀が見え、前方に小橋が現れた。
小橋を渡り、階段を下ると左手には神武天皇畝傍山東北陵が見えた。
堀に架かる橋を渡り、
神武天皇畝傍山東北陵へ近づいた。
広場の左側には立派な手水石が置かれていたので、手水を受け手から
お参りした。お参りしてからパチリ、パチリ・・
お参りとパチリを終えてから参道を出口へ進み、宮内庁の陵名板前へ出た。
この後、
御陵を後にすると
橿原考古学研究所 附属博物館付近
橿原市大久保町を通り
近鉄 畝傍御陵前駅へ到着した。駅舎には窓が無く不思議な景色だ。地下に改札があるそうだ。
駅前には橿原考古学研究所 附属博物館の常設展「大和の考古学」の案内板があった。
今回はパスだ。
畝傍御陵前駅への通路と共用化されている東西連絡通路へ向かい、
一度だけ振り向いて畝傍山をパチリ。まずはここで一区切り。本日の旅程の3分の1。
地下通路へ入った。東出口から地上へ出る前に振り向いてパチリ。通路の奥、左側に改札がある。
【 20120815の記録 】
- 大和三山回遊、その1(橿原神宮前駅~畝傍山~畝傍御陵前駅)
→ 橿原神宮 - 大和三山回遊、その2(畝傍御陵前駅~香久山~天香山神社)
- 大和三山回遊、その3(天香山神社~耳成山~近鉄 大和八木駅)