2013年04月13日(土) 涌福智山 國束寺(度会郡度会町平生) (徒歩)
アスピア玉城から国束山への山コース[尾根コース]を登り、山頂下にある旧国束寺跡を経由して度会町平生にある國束寺へ到着した。
【今日のコース】
アスピア玉城→弘法石→(国束山 山コース[尾根コース])→旧国束寺跡→國束寺[度会町平生]→旧国束寺跡→国束山→国束山谷コースへの分岐→鳴子山(往復)→国束山谷コースへの分岐→(国束山谷コース)→弘法石→アスピア玉城 (赤文字:本記事分)
旧国束寺跡から平生へ通じる山道(参道)を下りきると工事中のふるさと農道を横切り、水田の畔から國束寺の裏手にたどり着いた。
そこには鮮やかな芝桜、そしてその上には新しく建てられた納骨地蔵尊。
現在、この庭が整備されている状態だった。
改めて正式に國束寺にお参りするため、正面へ移動した。正面前の道路は整備され
その斜面には小さな石製の祠が見えた。あれは元の場所?
視線を國束寺の正面へ戻し、
参道を進むと、入口には「和宗 涌福智山 國束寺」と刻された寺標がある。
さらに進むと参道の左右には多数の地蔵丁石が並んでいた。
これは「六丁」、
「二丁」、
「十六丁」、
さらに進むと右手に「陶佛堂」の扁額が掛けられた建物がある。
まずはお参りしてからパチリ。
すべては陶製の仏像なのだろう。
なかでもこの欠伸する像は異色で興味深い。なかなかの出来。
ほかの像もそれぞれが個性的だ。
さらに参道を進むとこれこそお寺の雰囲気だ。左手に鐘楼、前方に寺務所が見える。
参道を挟み、鐘楼の向かいをパチリ。
ここにも多数の地蔵丁石が集められていてる。旧参道からこの場所へ移動されたものだろう。いったいどこの参道に建っていたのだろうか?
「十?丁」、
「十八丁」、
「十七丁」、
「九丁」
地蔵丁石の左手に清淨水石、そこで手を洗った。
視線を上げると頭上の棚から次の札が下がっていた。「郁子(むべ)」
鐘楼側の掲示板を見ると
そこには
心に こだわりが 無ければ その心に 恐怖も ない
と書かれていた。深い言葉だ。
こちらで國束寺の由緒書き(パンフレット)を頂いた。
詳細はこちらを、
【参考】 さらに詳細については、公式ホームページ
続いて鐘楼をパチリ、
また、鐘楼の前には「茶寿観音さま」が立っている。
この説明によると
「茶」は「十」+「十」+「八十八」=「百八」であり、茶寿は百八歳を表すとのこと。
この近くにはこのような石物、これは何だろうか?
境内を巡り巡って、たどり着いたのは本堂(観音堂)、
こちらは国束山の旧国束寺跡に建てられていた荒神堂が移築されたものとのこと。さきほど紹介した國束寺のofficial siteには国束山に建っていた当時の写真が掲載されているので比較するとおもしろい。
彫刻も当時のものだろうか・・・
この辺も・・?
本堂(観音堂)には「大悲殿」の扁額が掛けられ、その前には安土桃山時代の銅製鰐口。
そして壁面には次のポスターが貼られていた。
由緒書きにもあるように現在は大阪四天王寺末寺であることがこれで明らかだ。
さらに、本堂(観音堂)の左隣には
愛染明王がまつられている。
少し開けられた扉の間に・・・
この鰐口は宝永四年のものだそうだ。
境内をじっくりと散策させていただいた後、
旧国束寺跡へ通じる山道の登り口へ急いだ。
【 20130413 の記録 】
- アスピア玉城~弘法石~(山コース)~旧国束寺跡
- 国束寺跡~國束寺(往復)
→ 涌福智山 國束寺(度会郡度会町平生) - 国束寺跡~国束山ほか~(谷コース)~アスピア玉城
- 円通山 石佛庵、順礼道引観世音(度会郡玉城町原)
- 村山龍平記念館 開館三十周年記念特別展