2010年12月12日(日) 浜郷神社・栄通神社の真相と月次祭 (徒歩)
五十鈴川めぐり に行く途中、浜郷神社の社叢でこの風景に出会った。先週の土曜日に二見めぐりの帰り、浜郷・栄通神社を訪問したことを思い出し、ぶらりと立ち寄った。
【参考】 浜郷・栄通神社
池のほとりには犬の散歩させている男性がいたため、疑問に思っていた「浜郷神社と栄通神社の関係」について聞いてみた。
伊勢市の前身である宇治山田市に編入されるまでこの地域は浜郷村であった。浜郷村の神社として浜郷神社とされたが現在は栄通神社(えいつうじんじゃ)と呼ばれている。
まだ完全に理解できたわけでは無かったが、まず浜郷神社と栄通神社は同一のものであることが分かった。これで一歩前進だ。
なぜ名前が変わったのだろうか?、さらなる疑問を抱きながら社域へ入った。
再び狛犬との対面だ。先週はこの狛犬としばらく見つめ合っていた。が、
視線を狛犬から社頭へ移すと、そこには案が準備されていた。
社殿には既に御饌が準備され、何かの祭儀があることは確かだったので伺ったところ、8時から月次祭が斎行されるとのことだった。あと30分ほど時間があった。
まずは浜郷神社・栄通神社を参拝した後、両宮を遥拝した。
一度、浜郷神社・栄通神社を離れ、
隣にある山之神社へと向かった。
この手水石はなかなかいい雰囲気だ。小ぶりだが十分に手入れされ見た目も美しい。
心身を清め、山之神社に参拝した。この神社は楠の枯木がご神体なのだろうか? 立派な木だ。
月次祭の開始までには時間があったので周囲を散策し、開始の10分ほど前に戻ってきた。
月次祭の準備は完了し、祭儀に参加する方々が順次集まって来た。この時ばかりと先ほどの疑問(浜郷神社と栄通神社の関係、なぜ名前が変わったか?)を聞いてみた。
もともとこの神社は栄通神社であった。ところが明治の末期、一町村一社政策の実施により浜郷村内の神社が栄通神社に合祀され、その社名が「村社濱郷神社」とされた。その後、第二次世界大戦の敗戦により日本はGHQに占領された。GHQは国家と神道を分離するため、従来のような神道、神社への国や地方自治体による公的な支援、財政援助を禁止した。そのため、「村社濱郷神社」も村社ではなくなり、石柱に刻された「村」の文字はコンクリートで埋めさせられた。
現在の通称は栄通神社であるが、神社庁への登録はまだ浜郷神社となっている。
とのことだった。これが浜郷神社と栄通神社の真相である。
【追記】 浜郷神社と栄通神社の真相の詳細については、栄通神社(伊勢市通町)を参照
私は祭儀の直前に質問してしまった愚を反省しつつも、疑問が解消された安堵感に満足してしまった。
ほどなく定刻となり、浜郷神社と栄通神社の月次祭が斎行された。開始の宣言に始まり、
修祓。
大麻(おおぬさ)にて。
御塩(みしお)にて。
続いて、祝詞が奏上された。
最後に玉串奉奠(たまぐしほうてん)。
祭儀への参列者全員が玉串奉奠を終えると、私にまで玉串奉奠を勧めてくださり、実際に玉串を奉奠させていただいた。
たまたま月次祭の日に参拝に来ただけの部外者に玉串を奉奠させてくださるとは、感謝感謝感謝だった。
これも実はこの狛犬のお蔭だったのかもしれない。先週の見つめ合いは無駄ではなかったのだろう。(感謝)
社域を離れ、社名が刻された石柱を再確認するとやはり「村」の字は何かで埋められている。
よく見ると確かにコンクリートで埋められてはいるが、明らかに「村」と読める。この対処法にはGHQに対する明らかな抵抗の意志が感じられた。(これは私が感じただけだろうか?)
あえて過去には拘らず、歴史には全く興味を持てなかった私だが、この一年でその考えが一転してしまった。最近では歴史の積み重ねの奥深さを痛感し、歴史を勉強したいとまで思うようになった。何という変わり様だろう。自分でも驚く。
すっきりした気分と感謝の気持ちでいっぱいだ。浜郷神社・栄通神社を後にし、神宮125社 五十鈴川めぐりへと戻った。
【参考】 2010年12月12日
- 125社(五十鈴川めぐり)
- 浜郷神社・栄通神社の真相と月次祭
- 皇女森 宇治乃奴鬼神社々域